教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
近年、文部科学省が特別支援教育とか発達障害と言い出すと一斉に今まで耳にしたことがない言葉が飛び交いだし、さもさも新しい教育がはじまるかのように印象づけられている。
特別支援教育は新時代か
しかも、文部科学省が「特殊教育」から「特別支援教育」と名称を変えたことを、新時代として絶賛する研究者が非常に多い。
そういう人にかぎって、それまで特殊教育なり文部省の問題だらけの教育を克服して新しい教育方向を創造してきた人々も「十把一絡げ」にして、過去のものと決めつけている。
非常に単純な発想に驚きを通して、恐怖さえ覚えることがある。
不均等な日本語訳の背景
ひとつの例をあげてみよう。
特別な教育的ニーズ、教育ニーズ、教育的なニーズと言う人々は、なぜか、ニーズ(needs)だけは日本語にしない。
なぜだろうか。
教育委員会や福祉にさまざまな障害者の要求をもっていったひとは、役所の担当者から「ニーズがあるかどうか分かりませんので、調べた上でお答えします。」とか「そういうニーズはないので、出来ません。」とよく言われている。
この場合のニーズ(needs)は、行政側の「必要」や「需要」という意味であって、障害者の側に立ったニーズ(needs)ではないのだ。
教育的なニーズと書いている論文をよく読むと、教育的というのは教育だけではなくという意味合いが含まれている。
では、具体的に教育以外のどんなことが含まれるのかはさっぱり書かれていない。
ニーズ (needs)でごまかされていないだろうか
ニーズ (needs)となると、どのようなことをニーズとしているのかまったく解らないのである。
最初は、読み手の側の問題かと思い原書を読んでみると何のことはない、Special Educational Needsや Educational Needsの翻訳のしかたに行きついた。
Educationalは形容詞の意味合いがあるので「教育的」「教育的な」「教育の」としてneedsに「かけている」のである。
ところが、needsを日本語訳すると行き詰まって「ニーズ」としているのである。
それならいっそう「エデュケーショナル ニーズ」と書けばいいのにそうはしない。
一見中途半端な日本語にするには、日本語力の問題か、英語追随か、その他のことがあると思えてならない。
日本語にきちんと翻訳すると「新しい教育」の意味合いがなくなるので「粉飾」していると思うのだが、こう書けば批判は殺到するだろう。
でも冷静に考えてほしい。この間この問題等で調べたり、考え抜いてきた。
教育要求としても何ら誤訳ではない
でもあえて言う。
Educational Needsを教育の要求、教育要求としても何ら誤訳ではなく適切な日本語訳ではないかと。
このように「教育要求」とすると要求する側と要求を受ける側がはっきりしてくる。
教育委員会や福祉にさまざまな障害者の要求をもっいていったひとは、役所の担当者から「要求があるかどうか分かりませんので、調べた上でお答えします。」とか「そういう要求はないので、出来ません。」と言えなくなるだろう。
要求しているのに「あるかどうか」なんておかしい。
要求しているのに「要求はない」なんて、許せない。
となるだろう。
みんなの要求を「誤魔化す手段」としてのカタカナ表記が使われていないだろうか
このカタカナ文字表現や一部英語一部日本語の組み合わせは、しばしば切実な要求を「誤魔化す手段」に使われていないだろうか。
教育要求をだす。
このことは、イギリスやドイツやアメリカなどの例を出すまでもなく、日本は早くから教育要求をだし、教育内容や形態を変えてきた先進国なのである。
それは、国がしたのではない。制度がしたのではない。
多くの偏見や誤解をひとつひとつ取り除き、みんなが理解しあい、手を結んで行政の壁を打ち砕いてきたからなのではないか。
まだまだ問題は残っているが、新しい教育はみんなの理解と協力の中で生みだされ広げられて、創造されていくものである。
行政が上から「命令して」つくられるものではなく、行政はみんなの教育要求をとことん聞くべきなのであり、それを具体化していくべきである。
1960年代のろう教育をめぐる諸問題もそのことを具体的に教えていると思う。
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教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
独自予算が持てない日本の教育行政
インクルージョンinclusion は、障害児やそうでない子ども、すべての子どもが「平等」に学べること、共に学べることと解釈している人々が多い。
だが、本当に日本ではそうなって来ているのだろうか。
教育予算が、国家・地方行政では一定の比率で決められ独立して執行される国と日本のようにその時々によって執行される場合とでは大きな違いがある。
とくに、日本では教育行政は独自予算が持てなかった。
それが、ますます強まり、国や首長の権限が一層強化されてきている今日の状況下で日本のインクルージョンinclusionを考えなければならないだろう。
インクルージョンを適切な日本語訳をしないのには訳があるように思える。
「不純物」とも解釈される意味合いがある
インクルージョン
inclusionは、もともと含有, 包含, 包括;算入;加入. 含有物などの日本語訳がされてきた。
現在広く使われている「包含」「包括」などのことばを考えれば、異なったものを「つつみこみ」「中にふくんでいる」ということになる。
包まれるのは?
包むのは?
と考えるとおのずから障害児とそうでない子どもを分離している考えに行き着くだろう。
さらに、英語のinclusionは、純粋に対する混ざり物という意味があり、インクルージョンinclusionは、教育における「不純物」とも解釈される意味合いがある。
ところが一方、スペイン語では包含的という意味合いがあり、両方のうちのどちらも認めるという意味合いもある。
英語圏だけが「国際」ではない
これらのことを述べると切りがないが、英語圏の訳や意味のみを日本に持ち込んでくるのは大きな疑問が残る。
そればかりか、国際的動向と言いながら英語圏だけの理解や取り組みを広げるのは、英語圏以外の国々を無視したことになり、あたかも英語圏の国々が先進的だと言わんばかりの様子が醸し出されるからである。
なおざりにされてはいないだろうか
日本の教育実践を他国に知らせること
インクルージョンinclusion は、障害児やそうでない子ども、すべての子どもが「平等」に学べること、共に学べることと解釈している人がいるならむしろ統合教育ということばのほうが適切ではないだろうか。
かって文部省が使っていた用語であるが。
聴覚障害教育の歴史と実践を見れば、インクルージョンinclusion を解釈するまでもなく、日本での教育発展における学ぶべき教訓が見えてくる。
日本の教育は他国から学ぶことは強調されても、日本の教育実践を他国に知らせることはなおざりにされてはいないだろうか。
教育にたずさわる人々と生徒たちの貴重な教訓が山積みにされていることを忘れてはならないだろう。
そのことを踏まえて京都ろう学校の「授業拒否事件」や幼稚部の教育・インテグレーションをもう一度考えて見る。
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教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
向かっているだろうか
多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会
文部科学省は、
「これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会である。それは、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である。このような社会を目指すことは、我が国において最も積極的に取り組むべき重要な課題である。」
として、
「障害者の権利に関する条約第24条によれば、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が「general education system」(署名時仮訳:教育制度一般)から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な『合理的配慮』が提供される等が必要とされている。」
ということを明らかにしている。
包括の意味と文部科学省の意図
ここで、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)と仮訳であっても「inclusive包容」と日本語訳している。
ところが、包容とは、
包み入れること。
包み込んでいること。
広い心で、相手を受け入れること。
であり、その後、明確に日本語訳していないため、インクルージョンinclusionは、包括的なとかさまざまに解釈され、その解釈の基に「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、)が論じられている。
近年、このようなカタカナ表記の傾向は教育現場に大量に持ち込まれ、その解釈は主張する側や受けとる側などで主観的に受けとめられ、各々が分かったつもりで意味合いはまったく異なった状況が横行している。
このような事態はなぜ生まれるのか。
国民の責任にして 教育予算を削減する
それは、教育行政の最大の責任を有する文部科学省が自らの責任と教育を受ける権利を明らかにしないからではないだろうか。
包容が、「包み入れること。包み込んでいること。広い心で、相手を受け入れること。」であるとするならば、そのような条件を整えるべき責任は文部科学省にあるだろう。
国際間の条約を認めた以上は、その国に責任が問われるからである。
ところがことばの「使い分け」で、責任の主体をあいまいにしているのである。
誰が、という主語が記載されないことによって。
国際的とは 世界の国々の状況を見据えて
障害者の権利に関する条約は、いわゆる「先進国」から提案されたものではない。
学校もない、学校も行けない、読み書きが出来ない国々から出されたことを想起するなら、おのずとインクルージョンinclusionの意味は理解ができる。
ともかくすべての子どもたちが学校に行けるように、ということが第一次課題となっている国々では障害がある子どもも障害がない子どもも「インクルージョンinclusion」として教育が受けられるようにする事が教育保障の切実な要求なのである。
戦後
日本の教育が形成された教訓をしっかりとらえてこそ
戦後の一時期の日本のように戦争孤児たちの教育の中から障害児教育が発展し・分化してきたように。
では、経済的に裕福な先進国は、障害がある子どもも障害がない子どもも「インクルージョンinclusion」としてどのような取り組みをするのか、ということが問われて来る。
「インクルージョンinclusion」は、それぞれの国の経済状況によって異なった対応をするものであり、経済状況と切り離せらレない問題でもある。
ところが、近年の日本では特に経済状況を切り離して「インクルージョンinclusion」が論じられるから混乱した理解が横行する。
日本における教育予算の削減と「インクルージョンinclusion」について論じる人が極めて少ないがゆえんに「インクルージョンinclusion」は、国民的理解の問題に主題が置かれてしまっているようだ。
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