教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
向かっているだろうか
多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会
文部科学省は、
「これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会である。それは、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である。このような社会を目指すことは、我が国において最も積極的に取り組むべき重要な課題である。」
として、
「障害者の権利に関する条約第24条によれば、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が「general education system」(署名時仮訳:教育制度一般)から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な『合理的配慮』が提供される等が必要とされている。」
ということを明らかにしている。
包括の意味と文部科学省の意図
ここで、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)と仮訳であっても「inclusive包容」と日本語訳している。
ところが、包容とは、
包み入れること。
包み込んでいること。
広い心で、相手を受け入れること。
であり、その後、明確に日本語訳していないため、インクルージョンinclusionは、包括的なとかさまざまに解釈され、その解釈の基に「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、)が論じられている。
近年、このようなカタカナ表記の傾向は教育現場に大量に持ち込まれ、その解釈は主張する側や受けとる側などで主観的に受けとめられ、各々が分かったつもりで意味合いはまったく異なった状況が横行している。
このような事態はなぜ生まれるのか。
国民の責任にして 教育予算を削減する
それは、教育行政の最大の責任を有する文部科学省が自らの責任と教育を受ける権利を明らかにしないからではないだろうか。
包容が、「包み入れること。包み込んでいること。広い心で、相手を受け入れること。」であるとするならば、そのような条件を整えるべき責任は文部科学省にあるだろう。
国際間の条約を認めた以上は、その国に責任が問われるからである。
ところがことばの「使い分け」で、責任の主体をあいまいにしているのである。
誰が、という主語が記載されないことによって。
国際的とは 世界の国々の状況を見据えて
障害者の権利に関する条約は、いわゆる「先進国」から提案されたものではない。
学校もない、学校も行けない、読み書きが出来ない国々から出されたことを想起するなら、おのずとインクルージョンinclusionの意味は理解ができる。
ともかくすべての子どもたちが学校に行けるように、ということが第一次課題となっている国々では障害がある子どもも障害がない子どもも「インクルージョンinclusion」として教育が受けられるようにする事が教育保障の切実な要求なのである。
戦後
日本の教育が形成された教訓をしっかりとらえてこそ
戦後の一時期の日本のように戦争孤児たちの教育の中から障害児教育が発展し・分化してきたように。
では、経済的に裕福な先進国は、障害がある子どもも障害がない子どもも「インクルージョンinclusion」としてどのような取り組みをするのか、ということが問われて来る。
「インクルージョンinclusion」は、それぞれの国の経済状況によって異なった対応をするものであり、経済状況と切り離せらレない問題でもある。
ところが、近年の日本では特に経済状況を切り離して「インクルージョンinclusion」が論じられるから混乱した理解が横行する。
日本における教育予算の削減と「インクルージョンinclusion」について論じる人が極めて少ないがゆえんに「インクルージョンinclusion」は、国民的理解の問題に主題が置かれてしまっているようだ。
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