教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
G君の「未完の提起」の文章を見てつくづく考えさせられた。
彼の文章は、途中で終わっているが、かれも、お母さんも祖母も、ストレプトマイシンによる失聴である。
㏈値だけですべてを判断することは、諫めてきた
このことは、彼にも少しずつ在学中に知らせてきた。
また、他の聴覚障害生徒で失聴の原因が明らかで、そのことをみんなに知らせてほしいと言う聴覚障害生徒のことも話してきた。
聴覚障害生徒の聴力状況はさまざまで、またその聞こえの状況も違う。
だから、さまざまな聴力検査をしてもその結果について聴覚障害生徒に知らせても、必要な場合は、他の聴覚障害生徒には、㏈の数値で知らせるなどのことはしなかった。
聴覚障害教育研究会でもたえず㏈だけですべてを判断することは、諫めてきた。
何故なら、㏈はいくら検討しても一つの手がかりになっても㏈値が聴覚障害生徒の聞こえの状況をほとんど決定づけることにはならなかったからである。
残酷な「ことばの宿題」が 思春期 青年期になると
E君の
「 残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。」
というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、
「お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。」
のこの提起を充分知る必要があるだろう。
先のブログ
2011年11月19日土曜日 残酷な「ことばの宿題」
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を読んでいただきたい。
頭の中に「言葉の箱」を多く作れば作るほど
インテグレーション出来るとは
当時の幼稚部の先生は異口同音にして、概略的に言えば
「普通校に行くためには、ことばの箱を頭の中にたくさんつくり、先生や健聴児の話したことをそのことばの箱から取り出して話が分かるにする。」
「そのためには、どれだけことばの箱を多くつくり、ひとつひとつの箱にどれだけおおくのことばをいれるのかですべてが決まる。」
と言っていた。
すなわち、G君はその課題が出来なかったため(失敗したため)ろう学校に残って小学部・中学部と進んできたのである。
「その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。」
と
「今になって私はそう思えるようになった。」
と書いていることは、幼稚部・小学部の宿題がすべて聞こえる親を前提にしたものであったことが理解出来たとともにそれは矛盾に充ち満ちたものであるということである。
さらに、普通校に行けなかった自分が、問題を起こしたら「普通中学校の難聴学級」に転校させられる。
多感な思春期の時期、自己形成期にG君は、その矛盾を考え解決の方向を見いだせないまま「荒れ」て行くのである。
呑み込まされた続けた言葉の教育(口話法)
(あらゆる先生あらゆる友達に感謝をこめて)でI子さんが初めて知ったことば、
ぬくい、(あたたかい)。かいらし、(かわいい)。は、京都で広く使われている言葉であるが、標準語だけ教えられてきた彼女は、普通高校に入って初めてとまどいながら、その言葉を自分の中で消化していく。
(いろいろあったけど やっぱり好き努力すればよくわかるようになって)で、I君が悩み続けた、
私は、自分の言っていることが相手には聞きとれずにいることを考えない、自分の意志を通じ合うため、手をだして(暴力)しまったのです。
は、幼稚部の言葉の宿題が出来なかった時、お母さんが手を振りあげて叩いたことが「身についてしまった哀しさ」であることが後で解ってくる。
人間の言語は、発達(成長)にともない、その状況に応じて多くの言語を獲得して行くものである。
従って、「多くの言語」を「想定」して教え込むことによって何の意味も分からずに「言葉を発し」た生徒たちのその後は、あまり考えられていなかったように思える。
無理矢理「言葉」を教えられた生徒たちは
9、10歳のころに疑問を抱く
率直に言って無理矢理「言葉」を教えられた生徒たちは、9、10歳のころに疑問を抱き始める。
ものごとに批判的になる。

この時、言葉の箱とともに生徒たちの人格形成に「影」を落とす結果を招いたのではないか。
G君はそのことを「未完の提起」で言いたかったのではないかと思えたし、本人に話をしたら、「先生、なんで分かるの」と言われた。
ろう学校に
手話を導入する場合に口話法と同じ問題を引き起こすのでは
近年、口話法に全面的に対立してろう学校で手話を導入して手話教育を推進すべきだと主張され、各種研修会が開かれている。
その内容を見て驚くのは、成人したろうあ者が使っている手話表現をそのままろう学校に導入しようとしている。
身体的にも肉体的に未成熟な生徒に、成人のろうあ者が使う手話を教え、「強要」するならば、口話法と同じ問題が生じるだろうと考える。
では、山城高校の聴覚障害生徒に手話を学ぶ機会を否定してきたのか、と問われれば決してそうではない。
もっとあとで、そのことに触れて行きたい。
Esperanza
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