教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
口話教育 1965年前後ろう学校がすすめていた口話教育(対応教育)の理屈と実際
京都ろう学校幼稚部におけるインテグレーションの考え方 ②
] 私たちの過去の失敗は、聴覚を奪われた子供たちに、本来聴覚からのみ容易に入る音声記号を、それには不適当な他の残された感覚経路からストレートに押し込もうとしたことにある。
私たちは学習理論の原則に立ちかえって、彼らの残存感覚にもっと無理と抵抗のない信号をもちいて彼らに言語の存在に気づかせ、言語の価値を自覚させ、それを利用して耳の聴こえる子供たちに劣らない外界の把握と分割法を夫々の年齢で持たすべきである。
信号をいくつかの条件づけの過程を経
音声言語へと移行
そして次の段階で、彼らの信号をいくつかの条件づけの過程を経て、私たちの基本的伝達経路をしている音声言語へと移行させていく計画を立てるべきである。
しかも、このようなこのような手続きを経ていくことが、ろう児の人間発達を遅らせるという論拠はどこにもないのである。
自然法の著名な提唱者であるシントン校のGroht女史は、言語の理解と使用は豊かな経験を土台にして成り立つ、と言っているが、この豊かな土台、はこのような手続きの中でこそ真に育つものである。
身振り言語を駆使するなら
幼児段階の精神発達で遅れを残すことはない
ろう児の精神発達の問題を徹底的に再検討しているFarthは、非言語性テストにおけるろう幼児の成績が耳の聴こえる子供に比して本質的に劣りが見られないと結論しているが、彼はその秘密が、私たちの言語とは違うがそれにかわり得る何か別の手がかりを持っていることにあるようだと言っているが、このことは重大な示唆を与える。
即ち、身振り言語を駆使するなら、経験や概念の発達診断、推理の思考の発達において少なくとも幼児段階の精神発達で遅れを残すことはないはずだということを私たちに教えてくれるのである。
あまりにも単純な事物と記号の結合を急ぎすぎた
私たちの過去の失敗の今一つの原因は、豊かな概念の発達を見落して、あまりにも単純な事物と記号の結合を急ぎすぎたことにある。
ここで、言語の習得とは、一体どんなことか今一度考え直す必要があると考える。
言語は、概念と記号との間に神経的促通が出来ることにより成り立つものである。
Groht女史の豊かな経験は、豊かな経験の概念化と考えるべきである。
言語の習得は、その所属する社会の成員が外界を分割している分割のしかたを学ぶことであるといわれている。
それは人間として、その所属する社会の人々と同じものの見方を学ぶことである。
この人間の成長と並行することなしに言語は育たないのである。
K.レヴィンが、人間の大脳をトポロギー図で示した精薄の図はこの分割量の乏しさと、分割と分割の間の容易に転移、シフトしない固さを表している。
模倣学習を主軸に
困難な音声言語を叩きこまれたらろう教育の壁
十分な概念の発達をはかることなくして、模倣学習を主軸に、困難な音声言語を叩きこまれたら、ろう児が固い、ろう教育の壁と言われる精神発達の停滞現象を示すようになるのは当然の帰結である。
私たちのろう児に達成を望むものは、耳の聴こえる子供たちと同じ精神発達(当然言語発達もふくめたもの)である。
そして、この可能性は、私たちの指導法を徹底的に改変していけば可能であるということもはっきりしたとしても、尚残る問題として、どれだけの期間をかければろう児と耳の聴こえる子供たちの間の接点が出来るか、という問題がある。
※ 十分な概念の発達をはかることなくして、模倣学習を主軸に、困難な音声言語を叩きこまれたら、ろう児が固い、ろう教育の壁と言われる精神発達の停滞現象を示すようになるのは当然の帰結である。
と書かれている理屈は、教育実践とその展開でどのように行われたが検討して見る必要がある。
基本的考えがそうであっても「 模倣学習を主軸に、困難な音声言語を叩きこむ」ことに繋がらないのか、を検証してみたい。
なお、口話主義と単純に断定している人々は、「身振り言語を駆使するなら、経験や概念の発達診断、推理の思考の発達において少なくとも幼児段階の精神発達で遅れを残すことはないはずだ」と言うことを調べもしていないのではないかと思える。
「身振り言語」から「手話」に行きつくことになるのかどうかを注視して読んでいただきたいと同時に「身振り言語」を否定していないことから口話主義批判をしても教育実践をすすめる側は、自分たちへの批判とは受けとめないのである。
この複雑な縺れた糸を解きほぐすと極めて重要なことが明らかになる。
( つづく )
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