( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 7 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
無気力・無関心・無責任
1970年代に入って三無主義という言葉が流行した。
無気力・無関心・無責任。
の三つである。
このことに一番共感した聴覚障害生がすでにブログで述べたG君の話であった。
彼は、幼稚部教育の矛盾と問題と人格形成に与えた影響について「見事に行動で示してくれた。」
猛獣のような生徒と言われた
聴覚障害生徒の大波の向こう
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今になって私はそう思える
G君は、次のような事を書いた。
私は京都ろう学校の幼稚部へ入学するまでは何一つおぼえていませんが、幼稚部へ入学してから中学1年まで、ろう学校の生活を送った。
その生活の中でもいろいろと感動を味わった。
私は同級生の中でも勉強の方は誰にも負けませんでした。
授業に入るたびに先生が説明する前にも今日の勉強は何をするかは始めからわかっていたから。
それは不思議と思っていたが、あとでわかったのは、私のお母さんが、私が耳がわるいとわかっていてその上に、お母さんまで中途難聴になったショックから、出来れば自分の息子だけでも不幸な世の中に送ってほしくないと思いながら、幼稚部に入ってから私への口話訓練をほかの人よりも倍にしこんでいたからだった。
小学部からは、復習に予習に毎晩のように厳しくしこんでいたおかげであった。
残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。
というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。
でも当時の私は、勉強がよく出来るといってじまんしていたわけでもなかった。
と。
今になって私はそう思えるようになった……と考えるまで多くの問題と荒波があった。
このことから、青年期から成人期にかけての聴覚障害者は、自らの過去を振り返り、回復する力を持っているので、乳幼児期より難しくない、とする意見がある。でも決してそうではない。
三つ子の精(たましい)死ぬまでも
三つ子の精(たましい)死ぬまでも、という昔からの教えがあるように、乳幼児期に得られたものはその子の人生を左右すると言っても過言でもない。
では、すべてそうなるのか、となるとそうではない。
必要なときに必要な示唆が得られるようになると人間は回復するものである。
そこに人間の人間たる素晴らしさがあるのだ。
G君が「今になって私はそう思えるようになった」と懐の広い考えに到達するまでには長い時間と葛藤があった。
彼と同じ幼児期を過ごした聴覚障害者には犯罪を犯すものも少なくなかった。
だが、彼はそうまでにならなかったのはなぜか、を解明するつもりはない。
彼自身の文章の中にそのことが織り籠められているからである。
つくられた無気力
ここで、G君が三無主義という流行に飛びついたのはなぜであろうか、を乳幼児期の教育との関係で少し明らかにしておきたい。
無気力
通常子どもたちはことばを覚え、言葉に関心を持ち始め、コミニケーションという交通手段を獲得していていく場合は、喜びや感動がある。
あ、からあー、ああ、ああー、あん、あんと変化して子どもが言葉を発するときに
それを受けとめる側は声を発したことを喜び、あ、は何のことをいっているか考える。
すべてが、あーであってもそれが喜びを持って迎えられるのである。
そして、それが、まんま、と言っても必ずしもご飯のことを言っているのではないことも解りつつ「まんま」を受けとめる。
そういう環境の中で、「まんま」は次第に分化して、「ご飯」のことを意味したり、「まま」とお母さんのことを意味したりするようになって行く。
気持ちの交流が広がり 言葉も広がっていく
ここにおける言葉のやりとりは、意味のないものの中に意味をたしかめるものであり、その中で分化する意味を子どもも受けても知って行く。
そして、言葉を通じて気持ちの交流が広がり、言葉も広がっていくのである。
子どもと回りの育ち合い、育つことの喜びがここには溢れている。
だが、言葉の分化を先に教え込まれたらどうなるだろうか。
「まんま」は、だめ「ご飯」
「まんま」は、だめ「まま」
と。
耳の不自由な子どもは、ほっておいたら間違った言葉を覚えてしまい、後々、大人になってもその言葉が正しいと思って使う。
だから聞こえる子どもよりも先に、「キチンとしたことば」を教えておかないと大変なことになる。
何か、説得力があるようで、疑問が残りつつ教師に力説されたとおり子どもに「ことば」を教えてきた。
その結果が、G君を「無気力」と言う言葉が引き寄せた。
( つづく )
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