( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
人間の発達や教育をめぐる二つの潮流
人間の発達や教育を考えた場合、二つの潮流がある。
ひとつは、人間は外からの働きかけで(教育で)育つ。
ふたつは、人間は、人間は本来持っている力で育つ。
というふたつだろう。
詰め込めば詰め込むほど子どもたちは学ぶのか
前者は、すでに明らかにしてきたろう学校幼稚部の「対応教育」である。
小学校入学までにことばや文字を習得しておいて、小学校入学以降はことばの世界に入って普通児と同じように育っていく。
そのために早期教育は、絶対欠かせないものであり、5歳児までが勝負になるという考えである。
厳密に言えば、これは5歳児までは外から徹底的に詰め込んでおいて、6歳児以降は、本人自身で育つということになるかも知れない。
そうね、そうねと言うだけで子どもたちは学ぶのか
ふたつ目の傾向は、ひとつ目の人間は外からの働きかけで(教育で)育つ、という考えを「つめこみ」「子どもの否定」などとして「あるがままに育つ子ども」をあたたかく見守るなどとする傾向である。
そして「子どものここによりそい」とか「ともに共感して、その子のこころを認めてあげる」などを言う。
そう言いながら、何もしないのかと思えば、カウンセリングや教育相談として保護者から少なくないお金を受け取る。
これでは、詐欺ではないか、という意見も出てきている。
これらの二つの潮流は、子どもたちの発達を考えているようで考えていない。
無責任ということが
はやり言葉カタカナ表記で惑わされる
はやり言葉で生徒の心に寄り添って、ということばがしばしば使われるが、男の先生が女の生徒に寄りそう、女の先生が男の生徒に寄りそう、ということを想定すればここには奇妙な問題が内在することになる。
このことを指摘すれば、そういう風にとる人たちの考えに問題があるのだという怒りの声が返ってくるが、はたしてそういう人々は「寄りそう」という日本語の意味を理解しているのか疑問になる。
子どもたちの事を考えているようで
子どもの発達や教育の可能性を奪う
教育は、子どもたちを教えれば教えるほど効果をあげるものだろうか。
教育は、子どもたちを放置して自然にしておけば育つのだろううか。
高度に発達した現代社会に於いて、子どもたちの事を考えているようで、子どもを決めつけ、断定し、子どもの発達や教育の可能性を奪う主張が新たな装いをこらして横行しているようである。
温故知新。
1960年代中頃から1970年代にかけての聴覚障害児の早期教育と言われたことを紹介しているが、これは「過去」の問題ではなく、現在の問題であるとも言える。
もっと言えば、過去の教育実践の蓄積を脇に置いて居るがゆえん、同じ過ちをくり返しているように思える。
無責任。
M君が「三無主義」に飛びついた時に、教育が無責任状態にさせられている、とも言ったように思えた。
( つづく )
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