( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 3 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
卒業後のアフタ-ケアの複雑ないきさつ
1960年代末から1970年代にかけてろう学校幼稚部では、言語力を持ってもっと大きな集団である地域の普通小学校通学することで社会性を身につける手段としてとらえていた。
かんじんな教科指導については親が責任を持つ。
しかし、発音指導は、課題が残ったので「歪みや」「正しい発語」のため教師が何らかの形でアフターケアをするということになっていた。
このアフターケアを良心的に行う教師。
アフターケアーの名の下に金銭や物そのた教師の私生活に対する「親からのお礼」も横行していた。
これらのことは、ろう学校ではタブーでありながら半ば公然と行われる「慣習」があり、新採用の教師は激しい憤りさえ感じていた。
ところが、朱に交われば赤くなるというようにそれがあたりまえのような感覚に陥る雰囲気に次第に呑み込まれてしまう傾向も少なくなかった。
進学先の学校の発音指導はしてはならないという現実
さまざまないきさつから1973年3月からろう学校幼稚部卒業の子どもについては、進学先の学校の発音指導はしてはならないということになった。
これはある意味では当然のことであった。
責任の持つべき生徒たちでない生徒に対して、教育委員会の所管外の学校に教師が関わることは問題があったからである。
現在、特別支援教育という名目で教育委員会の所管外の学校に教師が関わることが、公然と行われているが、その責任の所在はあいまいで、問題が生じる度に教師個人の責任とされ「自殺」に追い込まれていることがあまりにも多くなっている。
制度はつくっても責任は持たない教育行政の姿勢は、現在に至っても改善されていないのである。
難聴児教育相談所設置のねがい
ろう学校幼稚部を卒業した生徒のほとんどは、京都市内であった。
ところが、京都市教育委員会は、京都市内は固定制難聴学級を作っていた。
ろう学校幼稚部から来た生徒は、固定制難聴学級でないと指導しないと京都市教育委員会は、頑固な方針であった。
そのため各行政区に点在している小学校に入学している聴覚障害児は、アフターを受けることが全くできなくなった。
そこで、聴覚障害児の親は、京都市教育委員会に「難聴児教育相談所設置」のねがいを出した。
しかし、京都市教育委員会はそれをまったく受け付けなかった。
今まで陳情や請願など行政にたして要求いた経験のない聴覚障害児の行動を起こした。
何も知りません、というのではあまりにも無責任
その取り組みにろう学校幼稚部の教師たちも参加しはじめて行った。
幼稚部を卒業したから私たちは、何も知りません、というのではあまりにも無責任だという気持ちからだった。
聴覚障害児の親が、
聴覚に障害を持ったわが子になんとか「ことば」を話させてやりたい、と幼稚部3年間を必死で朝・昼・晩もおかまいなしにはなしかけた。
バスの中。
買い物。
どんな時にも、子どもに話しかけ、ことばを教え続けてきた。
そんな気持ちを無にしていいのか、という気持ちがろう学校幼稚部の先生からうまれてきた。
( つづく )
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