( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 7 )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
1974年4月28日
学部間のワクをとる第一歩がはじまったが
日頃、幼稚部で、普通小学校入学をめざしおこなわれる教育体制の中で、矛盾や疑問をかかえて苦しむの若い教師と大部分が、普通小学校へ出ていった後に残されたわずかな子どもたちに発達に必要な集団が保障できないと悩む小学部の教師がはじめて共通の課題にとりくんだ。
学部のワクをこえて教師が自由に教育などについて意見を交換する基礎ができた。
若い教師たちは、土曜日のとりくみ以外に週一回、反省と計画のために集まった。教室も毎週、幼稚部、小学部の棟と教室をかえて話し合った。
他学部の教師が共に教室で集まって討議をするのは今までにないことで、学部間のワクをとる第一歩となった。
教師の動きと親の動きが共鳴
小学部では、「聞こえの教室をつくる取り組み」に参加した教師が、小学部の部会で「聞こえの教室をつくる取り組みの問題」を提起してた。
そのため聞こえの教室をつくる取り組みが、常に小学部全体の認識としてすすめていくことができるようになってきた。
その結果、中心メンバーではないが関心を持つ教師を数人まきこんで聴覚障害児への実際の指導に取り組んでいくことができた。
このような教師集団の動きは、親集団にも大きな影響を与えた。
「聞こえの教室をつくる取り組み」に
ろう学校の親は反対していたが
「まず小学部の子どもを十分に見てほしい。なぜ、他の学校に行った子どもまで……」と言う声が強かった。
しかし、「聞こえの教室をつくる取り組み」への教師の姿勢を見ているうちに、教師が聞こえの教室問題に取り組んで力量を高め学んでいくことが、自分の子どもの成長につながることを親自身が気づきはじめた。
小学部では、今まで限られた集団しかなかったが「聞こえの教室をつくる取り組み」の中で普通校に行った聴覚障害の生徒と交流し、仲間が広がったげた、ということが親の大きな喜びとなっていった。
そして、親の中では、ろう学校の小学部だけではなく、「聞こえの教室をつくる取り組み」は自分たちのこととしても支持・協力していかなければならないという考えが広がった。
教師が身についていたとは言えない
集団的に協議するスタイル
幼稚部では、なるべくインテグレーと母の子供の問題に触れたくないというものがあった。
それをうち破って積極的にインテグレーションの問題を探り、毎日の言語指導が何のためにあるのかを考えていこうとする教師が増えていった。
しかし、それは幼稚部全体の共通認識になるまでには小学部と違い十分な部会討議がされず、あくまでも有志参加に終わってしまっていた。
幼稚部の民主主義的運営の課題が残った。
聴覚障害児に対する教材研究を、幼稚部、小学部の教師の協同学習の場となり、教育指導を高めていくいくこと共通の取り組みとして計画されていた。
しかし、1つ1つの教材について十分協議する余裕がなかった。
そういう点ではまだまだ本当に集団的に協議するスタイルをそれぞれの教師が身についていたとは言えない状況であった。
色々な角度からの見方、色々な発達段階の子どもを扱う経験から、お互いに学び合うものは非常に大きかったが。
さらに今後、自分たちの現場でぶつかった問題を教師だけで解決するのではなく、教師全体に提起することによって、より広い立場で物事が見れるようになることの大切さを痛感した。
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