Once upon a time 1969
前述したアイラブパンフ運動( 正式には、 IアイLOVEラブコミニケーション 手話通訳制度化のためにのパンフを多くの人々に買ってもらい、添付されたハガキに手話通訳制度について賛成・反対・どちらともいえない の意見を求めるものであった。
パンフは、130万部普及し、全国すべての人々から500万字以上の意見が寄せられた。反対はほとんどなかった。 )に寄せられた全国の人々の声。
特に、中学生や高校生の意見をもとに 「 I LOVE コミにケーション 中学生・高校生のための手話テキスト」を作成した。
このテキストには、手話表現についてのイラストは掲載したが、読んで考えるようにテキストを作成した。
特に、アイラブパンフ運動の説明で各地を飛び回っていた時、N市でアイラブパンフに書かれている
「家にいるよりも、ろうあ者同士で行く喫茶店のほうが楽しい」-あるろうあ者は、こんな胸のうちを明かしてくれました。父母、兄弟姉妹の話していることがわからず
一家の楽しいだんらんにもとけこめないで、一人さびしい思いをしているろうあ者は少なくありません。」
の記述に対してろうあ者の妹をもつ姉から「この部分は誤解を受ける」「私たちは、どれだけ妹のことに対して考えているか……」と大泣きして、記述の改訂を求められてきた。
当時、パンフ作成は、事実上3人の合議による責任で、増刷の都度訂正を行ってきた。
そこで、N市でのろうあ者の妹をもつ姉からの提起をしたが、全日ろう連代表からは、「大半は書かれていることが事実としてある。」
とされ、受け入れられなかった。
そのため「 I LOVE コミにケーション 中学生・高校生のための手話テキスト」で、次のような項目を入れた。
またろう学校に通う友子のと健一の意見の「すれ違い」を、友子はろう学校の先輩を訪ねること。健一は地元手話サークルに入って未就学のろうあ者とろうあ協会の役員とのコミニケーションを知ること。
そして、お互いの誤解をといて、話し合うところはあえて、ことばを入れずに考えたり、みんなと意見交換するようにテキストを創った。
これらは、それまでの手話テキストとはまったく違ったものであったため、多くの批判が、後藤さんだけは、「いい、これがいい。」と言ってくれて確信が持てた。
「いい、これがいい。」
後藤さんの言ったことは、彼の作品を見てますます、そのことばの重みを感じるようになって行った。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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Once upon a time 1969
後藤さんから来た手紙にこのような返事を書いたことがある。(概略)
お手紙ありがとうございました。後藤さんが、集会の時のスローガンを書いておられるときから、味のある時で感心していました。
私にとって忘れられないのは、「岐阜の手話」です。
あの手話の絵を見たときから、手話とは何かが、心を込められて書かれていることに感動しました。
後藤さんの顔と似てもにつかない(すいません!失礼!)あの手話イラスト。
私は、全日ろう連があのような手話の本を出して欲しいと思いました。「わたしたの手話」は、味気ない。手話とは、あんな表現でないだろうと思います。
まるで最近流行のコンピュータ手話みたいなものがあり、私は非常な反発を感じていました。
重症な病気でどうしようもないとき、全日ろう連出版委員会で、「中学生、高校生向きの手話テキスト」を作成す話が出てきたとき、私は、二度と立ち上がれないだろうと感じていましたので、今までろうあ者の人々から学んだ手話の精神を「中・高生テキストに込めたい」と思うようになりました。
漫画本、脚本、を買いあさりながら、しかもアイラブパンフ運動に寄せられた全国の人々の声
(アイラブパンフの意見集約集は、各県から寄せられて人々の年齢順ですべて掲載していました。だから、その県の意見を順番に読むと、一番若い人から一番高齢な人々の意見が順に読めるようにしていました。時代をくぐりぬけたひとびとが、どのように考えているかを分かるように整理しました。)
の中から、小学生や中学生や高校生の意見を重点的に分析に、彼らがなにを求め、手話になにを求めているのか、聞こえない人々をどのように考えているのかを考え抜きました。
A県の中学生から「聞こえない両親の元で育ち、母を亡くしてからアイラブパンフを読んだ感想」が寄せられ、手話は命と知ったと書かれていました。
この言葉は、中高生テキストの中に組み込ませてもらいました。
友子という聾学校の生徒。健一という高校生の聞こえる生徒。
その二人が少しばかり諍いを起こす。
その二人がそれを考えるために、健一は未就学のろうあ者のことを知り、友子は聞こえない先輩を訪ねる。
このようなストリーは、私が手話を学んだなかから、いや、ろうあ者の人々から学んだ神髄を、若い人々に伝えていこうとしたからです。
そういうことは随所にちりばめながら、話したり、考えたり、手話を学んだりとする中で、時代の若者へのメーツセージを作成したつもりでした。
でも、サブテキストを作成するまでもなく、あの本の完成とともに奈落の底に落ち込む一方の病状になってしましました。
こころ和む、暖かい手話を通した人間愛を手話を学ぶ中で、教えてもらいましたが、今は手話すら出来ない身体になってしまいました。
でも、後藤さんの絵は、私のように身も心もずたずたになった人間に、暖かい、こころ休まるものを贈ってくれます。
どの絵を見ても、私は大好きです。
お金を貯めて、後藤さんの絵を書類だらけで雑然とした机の上に置いて、こころを休める決意をししています。
「与平小屋」いいですね。行ってみたい、です。でも、絵から伝わってくるものがありますし……今はリハビリに努めます。
本当にありがとうございました。
後藤さんの絵は、ほんのりした暖かさとゆったりした気持ちの中から、少しずつぼちぼちすすもか、という気持ちを与えてくれます。
ありがとうございます。
これらのことを契機に後藤さんは、福祉分野の画を描くことになる。
最初は、自由に書きたいと非常な抵抗あるメールが来たが、保育・医療・施設・学校などの画が描かれ、絵はがきや本に掲載されていった。
もちろん、人物はどこにも描かれていないが、使い古された保育園のイスの画に子どもたちの生き生きした姿と思い出が詰め込まれたような印象を受けた。
人間を描かず人間を描く
後藤さんにつくづく感嘆した。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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Once upon a time 1969
後藤勝美さんから画集「眠りから醒めて」が贈られてから、何万というメールのやりとりをした。
その中ですでき「眠りから醒めて 賛成しかねる ありえない デフ・アートなるもの」の項で、後藤さんが
「耳の聴こえない者(あえて言えば手話をコミュニケーション手段とする者)をろう者と言うが、これを英語にして"デフ・アート"なるものが流行って来ている。
これについても私は賛成しかねる。
そんなものは、ありえないと思うのだ。」
と書いていることをあきらかにした。
ろう文化なるものはない 文化の中のろうあ者とは言える
これらの問題では、かなり意見交換交換を行った。
近年、何の根拠もなく、何の理由もなくさかんに「ろう文化」を振りかざす人がいる。
そういう人ほどろうあ者の芸術活動に無頓着であり、過去、日本の文化の中でろうあ者の果たしてきたことを調べようとしない。
このことは、「無名」とされてきたろうあ者の役割を否定するものである、という点で後藤さんと意見が一致した。
ろうあ者の 歴史的遺産を世に
後藤さんは、後藤さんなりに必死になって全日本ろうあ連盟などからろうあ者の文化活動でもある芸術を世に出そうと提案していた。
衣服・彫刻・家具・陶器・絵画・楽器・精密機器などなどあらゆる分野で非凡な才能を発揮したろうあ者が数多くいる。
その人たちは、この世に何ら知られることなく世を去って行った。
だが、その作品は、ろうあ者としての悲痛な叫びあ上げることなく作り上げられてきた。
この歴史的遺産を世に問い、残したい。
眠りから醒めた、後藤さんの切なる願いだった。
柳行李に見いだした美
私も、全国各地を回った時、少なくない作品がろうあ者の手で作られていることを数多く知っていたから諸手を挙げて賛成した。
長野県に行った時だった。
「柳行李」(やなぎごうり)をかって作っていたろうあ者に出会った。
柳行李は、昔は、どの家にもあったがそれをろうあ者の人たちが作ってもいたということは知らなかった。
多湿な日本の風土の中で衣類入れにも使われていた柳行李は、現代風に言うならば有害物質を含まない、エコ製品と言ってもよいだろう。
かって作られていた柳行李の原材料は、あそこに放置されたまま育っている「コリヤナギ」と教えてもらった時は、非常に驚いた。
「コリヤナギ」から柳行李を作る過程は、大変なもので、昔はすべて手作業で編んでいた。
そのためその編み方を見たら誰が編んだのかも解るという。
何気なく見ていた古びた柳行李に「美」を感じた。
それから、いくつかのろうあ者が作った柳行李を見せてもらったが、たしかに、微妙なところに大変な工夫がされている。
ろうあ者の「芸術作品集」を作ろう
ろうあ者のはそのような仕事しかなかった。
だから、必死になって、ていねいに、ていねいに作り続けて、それを売って子どもたちを育ててきた、というろうあ者の顔が今でも浮かんでくる。
「 特に昔のままのひなびた漁村、漁港が好きである。
こういう場所は、時代の流れか、めっぽう少なくなった。さびしい限りだ。
もう一つは、無人化した古い工場とか、スラム風の板張り或はトタン張りの下町などにも、あちこち旅しては捜して描く。」
と書いている後藤さんと共鳴する気持ちがあった。
ろうあ協会の中で共感する人がなく、落胆している後藤さんに、ひとつの提案をした。
後藤さんの画が売れて、お金が貯まったら一緒にろうあ者の「芸術作品集」を作ろう。
出版しよう。
もう亡くなったろうあ者も多くいるが、その人たちへの尊敬の念も込めて、世に問おうではないか、と。
とんでもない、と思ったが
後藤さんは、大いに歓迎してくれて、それから彼の書いた画がどれくらい、いくらで売れたか、のメールが次から次へと送られてきた。
第1集が作れるかも、と思っていた時、後藤さんはとんでもない、ことを言い出した。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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