2012年7月7日土曜日

高校三原則と聴覚障害児の教育保障


 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(19)

 高校には、京都は他府県と非常に違った制度が残されていた。

  京都が守っていた男女共学・小学区制・総合制の高校三原則

 それが高校三原則と言われるもので、現在の京都の府立学校にはその三原則で残っているものは、男女共学だけかもしれない。

 戦後の新制高校発足にあたってこの高校三原則は、全国的に行われてきたが次第に崩され京都が唯一高校三原則を守ろうとしていた。
 高校三原則とは、男女共学・小学区制・総合制の三つであった。


    男女共学を守って

 男女共学は,戦前の旧制学校の男女間の格差などをなくすために男女が一緒に学習するというものであったが、1970年頃にはすでに他の府県立高校では男女共学が否定され、男子高校校、女子高校と別けられているところもあった。

 京都では、私学は、男子高校、女子高校と別けられている場合が大きかったが、京都府立高校では、男女共学を守っていた。


  総合制を
何とか維持しようとして

 総合制とは、同一学校の中に普通科と職業科など多様な課程・学科が置かれ、併設されるというものであった。
 そして、他学科開講の科目の学習や生徒間の交流などの中で生徒の全面的な発達を企図してつくられれいた。

 もともとは高等学校入学以降、生徒の教科単位のとり方で、主として普通科課程、主ととし工業化課程卒業などの結果となる仕組みだった。
 ようは、高校入学以降高校生の選択によって学習内容が決まるというものであったが、そのためには、多くの講座と教職員が必要とされるため国は国庫補助金を次第に減額し、普通高校、工業高校や商業高校と別立ての高校を設置すると国庫補助金が多く出されるようにしていた。
 そのため京都府立高校では、本来の総合性を維持できなかったが、ひとつの高校に商業科課程・普通科課程・工業科課程などが置かれ、なんとか他学科開講の科目の学習や生徒間の交流が維持出来るようになっていた。

 一番の隘路小学区制をどうするのか 二つの選択か

 聴覚障害児を教育制度上受け入れるとなった一番の隘路は、小学区制だった。

  小学区制通学区域をできるだけ小さくして、受験生の近くの公立高校に入学し、通学出来る制度であった。
 例えば、入学試験は、京都は京都市内全域、京都府下は一定の地域全域が決められて、合格者からその居住から近い公立高校に合格が決まるという総合選抜制度だった。
 他府県のほとんどは、中学区、大学区制度が採り入れられ、単独選抜制度が導入されていた。
 すなわち、公立高校の○○高校を受験すれば、○○高校で合否が決まるという制度だった。
 しかし、京都の公立高校は、○○高校で受験し、合格発表を見に行けば、○○高校合格、もしくは○△高校合格という仕組みになっていた。
 そのため他府県のように一流公立高校、二流公立高校、三流公立高校などの公立高校の順列はなかった。


   定時制は学区については広域が認められていた

 しかも、その年度の合格者の居住区の関係で兄弟姉妹の入学する高校が違ってくるなどの問題もあったが、他府県のように1時間以上の通学時間がほとんどであるなどは、一部の地域を除いてほとんどなかった。

 この高校三原則の評価などについて云々しないが、聴覚障害児の居住区は、京都市内全域、京都府下全域だった。


 そのためこの小学区制を機械的にあてはめると、ほとんどの聴覚障害児が聴覚障害児を受け入れる教育制度をつくった京都府立高校に入学できないという問題があった。

 この問題をどうするのか、聴覚障害児のために小学区制をなくするのか、それとも小学区制を残しながら聴覚障害児を受け入れる教育制度をつくった京都府立高校に入学できるようにするのか、という問題が浮上した。

 ただ、定時制は学区については広域が認められていた。
 ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)は、自宅が山城高校定時制の近くにあったため入学したが、彼が京都の他地域で働いていたらその職場の定時制を受験できるよう働く生徒のための配慮はされていた。


2012年7月6日金曜日

平坦でなかった義務教育から高等学校への道


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(18)

 「公立学校に難聴学級の設置を促進する会」から「聴覚障害児の教育を保障する会」が結成される、ということは重要な意味を持っていた。

    IQや㏈などの数値的基準で受けつけない教育ではなく

 例えば、京都市・京都市教育委員会がつくってきた固定式の難聴学級は、国の制度にのった特殊学級であった。
授業は、あくまでも難聴学級を基本とし、校内で一定の授業を受けるいわゆる校内通級(一定の教科は、普通学級で学ぶ)という方式も行われていたが、難聴学級に入学する条件が聴覚が中等度から軽度として㏈値が絶対条件のひとつであった。

 ㏈値は、聴覚障害の状況を知るうえでのものであったが、10㏈の違いで入級できないという問題があった。

 これらは、養護学校や特殊学級で学ぶ場合も、IQ値で入級できるか、どうか、が決められていて、少なくない子どもたちが学べない状況が作り出されていた。
 この数値だけで、子どもたちの学ぶ場が保障されるかどうかが決められるという矛盾と哀しみは数多くあった。

  包括的に聴覚障害児の教育を保障する という考えの一致

 それらを払拭するため、包括的に聴覚障害児の教育を保障する、という考えで親はもちろん多くの関係者まとまったのである。

 京都市・京都市教育委員会は、この段階以降も特殊教育という用語を使い続けた。
 一方、京都府・京都府教育委員会は、障害児教育という用語を早くから使っていた。


  これらのことをくわしく書くと長くなるので今回は、省略するが、聴覚障害児の教育を保障する会は、京都府教育委員会といくども話し合いをもった。

 このことは、同時に1965年から急増したインテグレーションということで普通学級で学ぶ聴覚障害児の教育をどのように考え、どのように教育保障をすすめるのかという問題を京都府教育委員会が突きつけられることとなった。

  京都府教育委員会と京都市教育委員会の考えの大きな違いが

 以降、京都府下では、京都市・京都市教育委員会の固定式学級に対して、通級式の「聞こえの教室」や「ことばの教室」がつくられていくが、この学級に通う条件として、数値的基準は一切つくられなかった。
 教育対象となる子どもの教育保障を基準通りすすめようとする京都市教育委員会に対して、子どもたちはすべて受けとめようとする京都府教育委員会は、しばしば摩擦を引き起こした。

高校入試をどうするのか
 試験で合格か 無試験か

 聴覚障害児の教育を保障する会が京都府教育委員会とはなし合いを重ねてきた中でいくつもの難問が生じてきた。
 そのひとつが、高等学校入学選抜、いわゆる高校入試をどうするのか、という問題であった。


 義務教育段階では、学級をつくれば、その学級生徒数に応じて教員配置されるが、高等学校に難聴学級や聴覚障害児学級をつくったとしても多くの矛盾と問題が出てくる。
 例えば、学級担任が2人配置(国から一切の国庫補助はないが)されたとしても、高等学校の専門教科を2人で教えられるかということになるとそれは、とても無理だということになる。

 高校入試を受けて合格した聴覚障害児に
            教育保障をするという基本提案

 さらに難聴学級や聴覚障害児学級をつくったとして、聴覚障害児が高校入学しても高校入試で入学してきた他の生徒との間で矛盾は起きないだろうか、また聴覚障害児は平等感を抱けるだろうか。
 などなどの問題が話合われた。


 
  そして、結果的に高校入試を受けて合格した聴覚障害児に教育保障をするという基本提案が、京都府教育委員会から出されてきた。
  この段階で、京都難聴児親の会の中で動揺が起きた。
 高校入試で合格したものはいいけれど、不合格になったらどうなるのか。

 高校入試に合格も出来ないのでは、入学しても高校の授業について行けないではないか。やはり、試験に合格できないといけない。
 でも、不合格になると……。


 義務教育から高等学校への道は
    平坦でなかった

 義務教育から後期中等教育としての高等学校への道は、平坦ではなかった。

 京都府立学校では、すでに少なくない聴覚障害児は入学し、卒業もしていた。また、私学でも同様のことも多くあった。 

 だが、高等学校で制度として聴覚障害児を受け入れる、となると話は大きく違ってきたのである。



 

2012年7月3日火曜日

対立する教育制度でいいの 難聴学級や「難聴」という言葉とろう学校や「ろう」という言葉を対立的に表現するのではなく

 

   教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(17)

 1948年に京都府立山城高校発足(全日制-普通科・商業科 定時制-普通科)が新制高校として発足する以前は、「京都3中」としての伝統をもつ学校だった。
 山城高校の教職員は、高等学校としての教育をすすめるべく努力していたのに、突然、聴覚障害のある生徒を制度的に受け入れられないか、ということについて京都府教育委員会から提起されたからびっくりしたり、とまどったのは無理がなかった。


         急激にすすんだインテグレーション

 ところが、1961年に京都府立医科大外耳鼻咽喉科「聴覚言語相談室」が発足。
 1965年から京都府立聾学校幼稚部卒業児の一般小学校への就学傾向がすすめられ(インテグレーション)、聴覚障害児が普通校で学ぶ傾向が急増していた。                                                                                                                                                                                        

 そして、普通学校としての小学校・中学校で学ぶ聴覚障害児数は、ろう学校の小学部、中学部の生徒数の三倍以上となっていた。

 これに対して、京都市教育委員会は、
 1966年京都市立出水小学校に難聴学級設置(固定)を決定し、京都市立出水小学校難聴学級発足。
 1968年京都市立二条中学校難聴学級(固定)発足。その京都市立二条中学校難聴学級を卒業する生徒の保護者が中心になって1970年に公立高校に難聴学級設置の請願がはじめられた。

     公立高校に
 特別学級をつくってほしい

 公立高校に特別学級をつくってほしいという請願だった。
 この請願内容は、多くの難しい問題をはらんでいた。


 学校教育法上などでは、高校に特別学級(特殊学級)をつくることが出来る一応されていたが、義務教育終了ということもあり、国庫補助はまったくなかった。そのため、全国的に特別学級はほとんどつくられていなかった。

  しかし、京都市立二条中学校難聴学級卒業を目前に難聴学級の保護者は必死だった。
 京都難聴児親の会をつくり、「公立学校に難聴学級の設置を促進する会」発足し、京都府議会に必死になって請願をした。
 そのため耳鼻科医でもあった府会議員が、京都府議会で公立高校での難聴学級問題についての質問し、京都府議会で公立高校に難聴学級設置の請願趣旨採択された。

   府と政令指定都市の管轄の狭間と国の締めつけ

 京都府教育委員会は、普通高校に特別学級としての難聴学級を設置することを検討せざるをえなくなったが、その一方で京都市教育委員会は政令指定都市として京都市立高校をその管轄下に置いていた。
 京都市教育委員会がつくった難聴学級なら、京都市教育委員会が責任を持って京都市立高校に難聴学級をつくればいい。

 京都府教育委員会は、政令指定都市の京都市以外の京都府下の教育に責任を持っているのだからという思惑もあった。

 この行政の仕組みと教育委員会の管轄の問題は、複雑なものであったが、さらにそれについて困難だったのは、難聴学級をつくればすべての費用は、京都市か京都府のどちらかだけで出さなければならない。
 地方財政の窮迫している時に、独自に予算を組んで制度をつくれば、国が京都府や京都市が富裕財政があると見なして国庫補助を削ってくるということが充分予測できた。

 いつの時代も同じであるが、この地方財政の締めつけは、それぞれの府市町村が独自の制度をはじめることを阻んでいた。

  親、教職員、関係者の対立は
  子どもたちの対立を生むことはやめようでは

 さらに、難聴学級の保護者は、私たちの子どもはろう学校の子どもと違う。難聴なんだ、という気持ちが強くこのままでは、ろう学校と難聴学級の対立状況が一層激化していくという心配が、難聴学級やろう学校だけでなく障害児教育に携わる教職員の中から沸々とわき上がっていた。

 京都府議会の教育長答弁でも、ろう学校は「ほとんど聞こえない」生徒が対象とされいても、ろう学校にはそれ以上に難聴の子どもが入学しているという現実があった。
 親、教職員、関係者の対立は、子どもたちの対立を生む。
 それは、教育としてよくないのではないか、対立ではなくもっと協力出来る関係をつくったほうがいいのではないか。

 いろいろな人々が、心配し、対立ではなく、協力・共同の方向を考えた方がいいと言い出し、夜を徹して話し合いが続けられた。

難聴学級や「難聴」という言葉と
ろう学校や「ろう」という言葉を
   対立的に使わないで


 京都難聴児親の会も必死になって子どもたちの進路を心配していたため、多くの人々の協力や共同の方向に耳をかたむけた。
 そして、京都でこれほど多くの人々が自分たちや子どもたちのことを考えてくれているのだということを知って


「公立学校に難聴学級の設置を促進する会」から、難聴学級や「難聴」という言葉とろう学校や「ろう」という言葉を対立的に表現するのではなく、

それらを「まとめた言葉」である「聴覚障害」という言葉を使おうということになり、「聴覚障害児の教育を保障する会」が結成される。