教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(19)
高校には、京都は他府県と非常に違った制度が残されていた。
京都が守っていた男女共学・小学区制・総合制の高校三原則
それが高校三原則と言われるもので、現在の京都の府立学校にはその三原則で残っているものは、男女共学だけかもしれない。
戦後の新制高校発足にあたってこの高校三原則は、全国的に行われてきたが次第に崩され京都が唯一高校三原則を守ろうとしていた。
高校三原則とは、男女共学・小学区制・総合制の三つであった。
男女共学を守って
男女共学は,戦前の旧制学校の男女間の格差などをなくすために男女が一緒に学習するというものであったが、1970年頃にはすでに他の府県立高校では男女共学が否定され、男子高校校、女子高校と別けられているところもあった。
京都では、私学は、男子高校、女子高校と別けられている場合が大きかったが、京都府立高校では、男女共学を守っていた。
総合制を
何とか維持しようとして
総合制とは、同一学校の中に普通科と職業科など多様な課程・学科が置かれ、併設されるというものであった。
そして、他学科開講の科目の学習や生徒間の交流などの中で生徒の全面的な発達を企図してつくられれいた。
もともとは高等学校入学以降、生徒の教科単位のとり方で、主として普通科課程、主ととし工業化課程卒業などの結果となる仕組みだった。
ようは、高校入学以降高校生の選択によって学習内容が決まるというものであったが、そのためには、多くの講座と教職員が必要とされるため国は国庫補助金を次第に減額し、普通高校、工業高校や商業高校と別立ての高校を設置すると国庫補助金が多く出されるようにしていた。
そのため京都府立高校では、本来の総合性を維持できなかったが、ひとつの高校に商業科課程・普通科課程・工業科課程などが置かれ、なんとか他学科開講の科目の学習や生徒間の交流が維持出来るようになっていた。
一番の隘路小学区制をどうするのか 二つの選択か
聴覚障害児を教育制度上受け入れるとなった一番の隘路は、小学区制だった。
小学区制通学区域をできるだけ小さくして、受験生の近くの公立高校に入学し、通学出来る制度であった。
例えば、入学試験は、京都は京都市内全域、京都府下は一定の地域全域が決められて、合格者からその居住から近い公立高校に合格が決まるという総合選抜制度だった。
他府県のほとんどは、中学区、大学区制度が採り入れられ、単独選抜制度が導入されていた。
すなわち、公立高校の○○高校を受験すれば、○○高校で合否が決まるという制度だった。
しかし、京都の公立高校は、○○高校で受験し、合格発表を見に行けば、○○高校合格、もしくは○△高校合格という仕組みになっていた。
そのため他府県のように一流公立高校、二流公立高校、三流公立高校などの公立高校の順列はなかった。
定時制は学区については広域が認められていた
しかも、その年度の合格者の居住区の関係で兄弟姉妹の入学する高校が違ってくるなどの問題もあったが、他府県のように1時間以上の通学時間がほとんどであるなどは、一部の地域を除いてほとんどなかった。
この高校三原則の評価などについて云々しないが、聴覚障害児の居住区は、京都市内全域、京都府下全域だった。
そのためこの小学区制を機械的にあてはめると、ほとんどの聴覚障害児が聴覚障害児を受け入れる教育制度をつくった京都府立高校に入学できないという問題があった。
この問題をどうするのか、聴覚障害児のために小学区制をなくするのか、それとも小学区制を残しながら聴覚障害児を受け入れる教育制度をつくった京都府立高校に入学できるようにするのか、という問題が浮上した。
ただ、定時制は学区については広域が認められていた。
ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)は、自宅が山城高校定時制の近くにあったため入学したが、彼が京都の他地域で働いていたらその職場の定時制を受験できるよう働く生徒のための配慮はされていた。
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