2012年7月6日金曜日

平坦でなかった義務教育から高等学校への道


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(18)

 「公立学校に難聴学級の設置を促進する会」から「聴覚障害児の教育を保障する会」が結成される、ということは重要な意味を持っていた。

    IQや㏈などの数値的基準で受けつけない教育ではなく

 例えば、京都市・京都市教育委員会がつくってきた固定式の難聴学級は、国の制度にのった特殊学級であった。
授業は、あくまでも難聴学級を基本とし、校内で一定の授業を受けるいわゆる校内通級(一定の教科は、普通学級で学ぶ)という方式も行われていたが、難聴学級に入学する条件が聴覚が中等度から軽度として㏈値が絶対条件のひとつであった。

 ㏈値は、聴覚障害の状況を知るうえでのものであったが、10㏈の違いで入級できないという問題があった。

 これらは、養護学校や特殊学級で学ぶ場合も、IQ値で入級できるか、どうか、が決められていて、少なくない子どもたちが学べない状況が作り出されていた。
 この数値だけで、子どもたちの学ぶ場が保障されるかどうかが決められるという矛盾と哀しみは数多くあった。

  包括的に聴覚障害児の教育を保障する という考えの一致

 それらを払拭するため、包括的に聴覚障害児の教育を保障する、という考えで親はもちろん多くの関係者まとまったのである。

 京都市・京都市教育委員会は、この段階以降も特殊教育という用語を使い続けた。
 一方、京都府・京都府教育委員会は、障害児教育という用語を早くから使っていた。


  これらのことをくわしく書くと長くなるので今回は、省略するが、聴覚障害児の教育を保障する会は、京都府教育委員会といくども話し合いをもった。

 このことは、同時に1965年から急増したインテグレーションということで普通学級で学ぶ聴覚障害児の教育をどのように考え、どのように教育保障をすすめるのかという問題を京都府教育委員会が突きつけられることとなった。

  京都府教育委員会と京都市教育委員会の考えの大きな違いが

 以降、京都府下では、京都市・京都市教育委員会の固定式学級に対して、通級式の「聞こえの教室」や「ことばの教室」がつくられていくが、この学級に通う条件として、数値的基準は一切つくられなかった。
 教育対象となる子どもの教育保障を基準通りすすめようとする京都市教育委員会に対して、子どもたちはすべて受けとめようとする京都府教育委員会は、しばしば摩擦を引き起こした。

高校入試をどうするのか
 試験で合格か 無試験か

 聴覚障害児の教育を保障する会が京都府教育委員会とはなし合いを重ねてきた中でいくつもの難問が生じてきた。
 そのひとつが、高等学校入学選抜、いわゆる高校入試をどうするのか、という問題であった。


 義務教育段階では、学級をつくれば、その学級生徒数に応じて教員配置されるが、高等学校に難聴学級や聴覚障害児学級をつくったとしても多くの矛盾と問題が出てくる。
 例えば、学級担任が2人配置(国から一切の国庫補助はないが)されたとしても、高等学校の専門教科を2人で教えられるかということになるとそれは、とても無理だということになる。

 高校入試を受けて合格した聴覚障害児に
            教育保障をするという基本提案

 さらに難聴学級や聴覚障害児学級をつくったとして、聴覚障害児が高校入学しても高校入試で入学してきた他の生徒との間で矛盾は起きないだろうか、また聴覚障害児は平等感を抱けるだろうか。
 などなどの問題が話合われた。


 
  そして、結果的に高校入試を受けて合格した聴覚障害児に教育保障をするという基本提案が、京都府教育委員会から出されてきた。
  この段階で、京都難聴児親の会の中で動揺が起きた。
 高校入試で合格したものはいいけれど、不合格になったらどうなるのか。

 高校入試に合格も出来ないのでは、入学しても高校の授業について行けないではないか。やはり、試験に合格できないといけない。
 でも、不合格になると……。


 義務教育から高等学校への道は
    平坦でなかった

 義務教育から後期中等教育としての高等学校への道は、平坦ではなかった。

 京都府立学校では、すでに少なくない聴覚障害児は入学し、卒業もしていた。また、私学でも同様のことも多くあった。 

 だが、高等学校で制度として聴覚障害児を受け入れる、となると話は大きく違ってきたのである。



 

0 件のコメント: