教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
大津市のいじめ事件の本質に迫る論調は
( 解説 )
最近、大津のいじめ事件から各地で生徒のいじめが大きく報道されている。
しかし、このいじめ問題の本質に迫る論調はあるだろうかと考えてしまう。
今から、27年前。
1986年頃からはじまった。
定年退職を前にしたB先生やA先生に対して京都府教育委員会のとった態度と処置を見ると、京都府教育委員会の教職員に対する「いじめ問題」というよりは精神的苦痛を極限まで追い詰める「拷問」に近いものであった。
気に入らない教師を「血祭り」にすることで教育現場や教師を教育委員会の下に従わせるというきわめて計画的で陰湿なものであったと言えよう。
いじめ、いやがらせ、「拷問に近いこと」を行ってきた
教育行政が真にいじめをなくせるか
このことは、病弱養護学校設立時における入院している子どもたち同士の「いじめ合い」「嫌がらせ」をなくし、協力し合い、卒業後も生き生き生き抜くことへの否定にも繋がったのである。
これらの教訓は、京都の教育現場に生かされていたら「苦しみ」「悩み」「傷つく」子どもたちは、もっと少なくなっていたはずである。
営々と築かれたものを破壊して、知らぬ顔をして「いじめ対策」なるものを打ち出す教育委員会のトップは、いじめ、いやがらせ、「拷問に近いこと」を行ってきた張本人であることは免れない事実である。
暴力を容認し 障害児教育を不要とする
体罰、暴力など叫ばれる今日、27年前以降多くの体罰、ハラスメントを繰り返した教師が校長になった。
特に有名なのは、生徒の足首をつかんで窓からつる下げて自分の言うことを聞かそうとした教師。
マスコミで大問題になったが、その後、京都府教育委員会はその校長に抜擢している。
暴力を容認する体質と同時に障害児教育を不要とする「切り捨て」も急速に進められた。
そのはじまりが、B先生、A先生への「見せしめ」であった。
京都の障害児教育を語る人々は、この事実に対して「傍観者」であったためほとんど触れることはない。
そのためあえてこの問題を明らかにしておきたい。
問題は「踏み絵」と障害者団体への「侮蔑」
B先生は、次のような事をあきらかにした。
私は、今までの全国ろうあ者卓球大会で、日の丸掲揚、君が代斉唱はしてなかったし、あくまでもろうあ団体などが共催・後援する大会なので行政が大会の運営・内容に干渉することになるので、そういうことは出来ない、と言ったんです。
すると府教委に呼び出されて、「理由を言え」と言われるので説明をした。その明くる年、異動させられた。
教育研究所に2年間。
隔離部屋のような状況にされて。
見せしめと言葉狩り
A先生も転勤させられたのも。
このことについて、日の丸掲揚、君が代斉唱の是非や京都府政の流れが変わったからそうなっても当然だとする考えがある。
このことで評価は分かれるだろう。
だが、そうだろうか。
B先生は、ろう学校の教頭として日の丸の掲揚について京都府教育委員会の方針通り従った。
そのためろう学校の教職員から激しい指弾を受けた。
でも、それを変えることはなかった。
ここで、ろう学校の「君が代の斉唱」問題は、少し置いておきたい。
なぜなら、斉唱とは、1,一斉にとなえること。2,同一旋律を二人以上でうたうこと。の意味があり、ろう学校の生徒にそれを強要すること自体、生徒の障害を理解していることにならないからである。
現在、一同起立、斉唱、ということが府立学校で行われているが、車いすの生徒や言語障害がある生徒に無理強いすることは基本的人権の蹂躙ではないかと思うからである。
団体の自主性を尊重するのは
あたりまえのルールであったが
それらの意見はあるにしても、A先生に京都府教育委員会は、全国ろうあ者卓球大会で日の丸掲揚、君が代斉唱をするように「指導」したのは重大な問題がある。
そこには、障害者団体を「軽んじ」「他団体より下位にあるという差別的な考え」があったことは明白である。
全国ろうあ者卓球大会に対して京都府教育委員会は後援名義はしたものの具体的援助は京都府が行った。
その京都府から、日の丸掲揚、君が代斉唱問題は出されたわけではない。
行政としては、「ろうあ団体などが後援する大会なので行政が大会の運営・内容に干渉する事」は、してはならないことはB先生と同様十分承知していたからである。
ところが、後援名義だけの京都府教育委員会が、京都府教育委員会の保健体育課が「大会の運営・内容に干渉すること」をなぜ強要してきたのかという問題がある。
「実績」「手柄」に傾注
その第一は、ろうあ団体を行政の支配下におけると考える見方である。
他団体のスポーツ大会に後援名義と引き替えに行政の考えを押しつけたり、干渉すれば反発されるのは目に見えている。
だが、ろう学校の教師が言えば、ろうあ団体は言うことを聞くというろうあ団体を低く見て、京都府教育委員会の言いなりになるようにしようと言う考えがあった。
そのためには、ろうあ団体と充分意思疎通が出来て信頼関係があるA先生を利用しようと考えた。
それが実現すれば、それまで全国ろうあ者卓球大会で日の丸掲揚、君が代斉唱がなかったものを京都がそれをさせたということで全国に「自慢」出来るという考えがあった。
それほど単純な発想なのである。
「実績」「手柄」を立てることだけに傾注していた京都府教育委員会の幹部には、そんな考えしかなかったのである。(これはすでに掲載した教職員の労働安全衛生協議の項をみてもらえば明らかである。)
「さらし者」に耐えたA先生 それを恐れた一部の教職員
第二に、A先生がそれをしなければ、A先生を「手ひどい目」「見せしめ」にあわせて、京都府教育委員会の言うことを聞かなければどうなるか、として障害者団体や障害児教育の分野で京都府教育委員会の指導を貫徹しようとするもくろみがあったと考えられる。
このことで一番過剰に反応したのは、教職員であった。
先に述べた「ことば狩り」に賛同した少なくない教職員は、次々と京都府教育委員会の「指導」に従い、それを伝達し出した。
そして、障害児教育にA先生とともに携わっていた多くの教職員が「管理職」に抜擢され、それまでの京都の障害児教育を「否定」するようになる。
A先生は教育研究所に2年間、他のメンタル面で苦悩する校長と3人の隔離部屋に入れられ、仕事はするな、としてかって同僚だった教師やともに教育に携わった教職員が出入りする教育研究所で「さらし者」にされる屈辱に耐えた。
それでも、退職しないB先生を退職1年を前に京都府教育委員会は、普通中学校に移動させる。
だが、そこでもB先生の教育実践の炎は消えることはなかった。
この時問題だったのは、例え立場が違っても「仕事を与えないで隔離部屋」に通勤させる府教委の基本的人権を批判し、それをあらためさせる教職員の動きがあまりにも少なかったこと。
全国ろうあ者卓球大会開催で不当な扱いをうけたA先生のことを、地元京都ろうあ協会の人々に知らせなかった教職員の姿勢は、いくら情報保障が大切だ、と主張しても、主張だけに留まるだけだと批判されてもしかたがないだろう。
ろう学校の教職員は、このことに沈黙を貫いた。
( つづく )
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