教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
A先生が、特別学級をつくってた小学校6年後。
1954年(昭和29)、A先生は、M市の小学校転勤になる。
M市は、かって日本海に面した良港として栄えた都市であった。
そのためM市の小学校の規模は大きく教職員や生徒の人数も多かった。
ここでもA先生は、特別学級の必要性を説き教職員の全員の合意を得て特別学級がつくられていく。
この頃の学校は、戦後の憲法・教育基本法のもとでは,教育の自律性,学校の自主性が大切にされ、学校長は、学校運営を民主的に行う能力とともに,教育的識見の豊かさ,教育上の指導力が求められていた。
ところがこれらのことが次第に変えられつつある中での特別学級設置であった。
二度目の特別学級をつくった時ごろから
すべての子どもに教育をの実際の行動が
A先生は、このM市の小学校には、列車を使わず自動車通勤した。
当時高価な自動車を購入したのにはわけがあった。
それは、ふるさとの小学校で京都府下で2番目の特別学級をつくったもののその学級にすら通えない子どもを、何とか異動した規模の大きな小学校の特別学級に通わせたいという思いがあったからだ。
機織り機械工場で働く両親は、早朝から機械に追い立てられて重度障害の子どもの面倒もみる時間もない。
ましてや、学校に連れても行けない現実をA先生は直視していたからである。
この子には、とてもとても教育なんて考えられない、と言い切る両親の姿の背景を見ていたA先生は、異動した小学校の特別学級に子どもさんを通わせないか。
朝は、自分の自動車に乗せて学校に行く。
帰りは、両親が機織り工場の合間をぬって子どもさんを迎えに来られないか、と言う提案だった。
両親は、考え抜いてA先生の誘いに甘えさせてもらうということになる。
いったん
自己犠牲をしてでも子どもたちの教育保障をすすめるが
広大な地域。
過疎が押し寄せ交通の不便さは昔よりはるかに悪くなる中でのA先生の自家用車を買うという決意。
この決意の背景には、A先生の家族の支えがあったが、A先生の心の中はいつまでも自分の車で子どもたちを乗せていくという考えはなかった。
いったん、自己犠牲をしてでも子どもたちの教育保障をすすめるが、この自己犠牲だけでは限界がある。
教育を保障すると言うことは、子どもたちが学校の門をくぐって初めて実現することではない。
玄関から学校に行けるまでの間も
教育保障なのだ
子どもたちが、学校に行けるようにしてこそ、教育保障がはじまる。
玄関から学校に行けるまでの間も教育保障なのだという揺るぎのない考えがあった。
だから、子どもたちや子どもたちの家族、教職員の犠牲を内容にしてこそ教育保障であり、これを国や地方自治体が保障すべきものなのだという考えは、A先生が死ぬまで言い続け、行動したことであった。
いったん教職員で受けとめるが、その有効性を行政に示して、行政に保障させていくという行動。
自家用車は、養護学校のスクールバスに変わっていくまでにずいぶん月日が経つたが、A先生は、それを引き出す第一歩を歩み出したと言ってもよいだろう。
( つづく )
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