教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
A先生は、小学校の特別学級の取り組みを京都北部の教職員や保護者に呼びかけてすべての子どもたちに教育を保障することの大切さ、学習することで子どもたちが発達する事実を具体的に知らせて行く。
特別学級での取り組みを絶えず公開し、批判や提案を積極的に受けとめそれを教育に環流するA先生の確固たる姿勢は、現代でも学ぶべきことが多い。
そればかりか、後世のために詳細な実践記録を書き残している。
多くの人々は、A先生たちが親とともに養護学校づくりをはじめ、与謝の海養護学校が出来たところから与謝の海養護学校の教育を注目しているが、それは大きな誤りである。
紆余曲折はあったものの1950年代からもう養護学校づくりの取り組みははじまっていたのだというA先生の話にもっと傾注する必要があるだろう。
学校づくりは箱づくりではない 民主的地域づくり
の本当の意味
何かが出来て初めて注目することが多い中で、本当は「出来るまで」が大切なのだ。
出来て、それを守り発展させることは大切なのだ、という意味でA先生はその後「学校づくりは箱づくりではない。民主的地域づくりである」と言った。
「箱」
「民主的地域」
このことの意味を充分理解せず、語録のように言っている人があるがこのことは、涙と血のにじむ中で作り上げてきた人々の労苦を理解するものでは決してない。
「特殊教育」は
「特殊教育を充分知っている先生しか出来ない」
としなかった
さらにA先生の教育実践を「秘密主義」「ある種の魔法」「あの先生しか出来ない教育」などなどとしなかった姿勢は、現代の教育分野でも継承されていかなけてばならないことだろう。
特定の分野は、特定の先生しか出来ない。
そうしなかったために「特殊教育」は、「特殊教育を充分知っている先生しか出来ない」としなかった、としなかったのである。
もちろん普通教育のアプローチだけで子どもたちへの教育をすすめたわけではない。
幾度試みても子どもたちの発達保障が取り組めないこともあった。
そのためA先生は、多くの先生に絶えず呼びかけ学習会を何度も開いたり、研究集会を開いたりした。
このことによって、A先生の地域では特別学級が次々とつくられていく。
勤務評定とA先生のとった態度
1957年から58年にかけて戦後教育は大きな分岐点に立たされる。
それまで、選挙で選ばれていた教育委員の公選制が、自治体の長の任命制に変わった。
これは、戦前の国や行政の教育に対する直接的な介入を反省し、教訓化した教育基本法に真っ向から対立するものであった。
また、教育委員の任命制のもとで,教員にたいする勤務評定が強行された。
それは、それが教職員の団結を破壊し,教育の権力統制を意図するものとして教職員組合を中心に全国的に激しい反対闘争が繰り広げられた。
すべての子どもに教育をということが
再び軍靴で踏みにじられる
A先生17歳。
学徒動員で、自らの手で親友を「まるで魚を焼く如く長い鉄棒で荼毘にふした悲しくもきびしかった経験」の中で自分の「生きざまをつくり出す基礎」を創りあげてきた。
そして、特別学級の子どもたちの教育を創りあげてきた。
教師が、国・行政の下で評価序列化させられる。
そして、またお国のために役に立つ子どもを教育させられる。
それは、すべての子どもに教育をということを再び軍靴で踏みにじられるものであった。
だから、A先生は身に迫る危険をも承知の上で断固反対した。
教職員や地域の人々に勤評の問題を訴え続けた。
勤評は、特別学級の子どもをはじめすべての子どもの教育を保障するものではない
地域でも賛同も多かったが、教職員の逮捕という事件まで発展したこの勤務評定反対の取り組みに多く動揺も生まれたが、A先生は、逮捕された先生を擁護するため裁判で証言に立った。
そして、勤評は、特別学級の子どもをはじめすべての子どもの教育を保障するものではないと凜と訴えた。
( つづく )
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