教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
1957年から1958年にかけて、教育委員は選挙で撰ばれるという教育委員公選制だった。
それが、行政の長が任命するという教育委員任命制度に変えられた。
そのもとで,教員にたいする勤務評定が強行された。
生徒たちの たとえようもない哀しみと屈辱
さらに、1961 年から1964 年まで4年間全国学力テストが実施された。
そのため都道府県の少なくない地域では、学力テストの対象生徒を特殊学級を除いたり、各クラスの「できの悪い生徒」とされる子どもたちは、先生から学力テストの日には学校に来なくていい、と言われて学校を休まされた。
また、逆に特殊学級が急増して、成績のいい生徒が集められ学力テストで高得点を得るために「特別授業」が行われるようになったりした。
都道府県が、市町村が、学校が「学力日本一」「高成績」のために奔走した中で授業についていけ行けない生徒や障害生徒は、たとえようもない哀しみと屈辱を与えられた。
教育による差別と選別。
A先生が、勤務評定反対で言い続けていたことが地域の人々に具体的あからさまに突きつけられた。
うちの子は、学校にも行けないじゃないですか
この頃にはすでにA先生には、固い固い決意が形成されていた。
勤務評定反対の時に、地域のあらゆる人々と話し合った。
その時、
「先生の言われることはよく解りますが、うちの子は、学校にも行けないじゃないですか。」
と就学猶予免除で学校に行けない子どものお母さんの切実な言葉だった。
「すべての子どもたちにひとしく教育を保障しなけばならない。」
「特別学級」の子どもたちだけを考えていてはいけない。
A先生は、地域の特別学級の子どもたちや保護者や学校に行けていない保護者に呼びかけて、遠足や運動会や学習会をはじめてみんなが一緒になって
すべての子どもたちがひとしく学べる
ことを模索しつつ、その展望を切り拓いていく。
想像できない努力の中で産まれた喜び
それは、今日言われるような「特別ニーズ」の取り組みであったかも知れないが、「特別ニーズ」を言う人々が思うような「軽々な取り組み」であったとは思えない。
絶望と生死。
血の涙と血の汗。
岩に身をぶつけて岩を砕く行動。
そのようにして、少しずつ、すこしずつ道を切り拓いていったと言うほうが適切かも知れない。
いやもっと、想像を超えたものがあっただろう。
その中から喜びが産まれてきた。
教育の方針や方法を
決して多数決で決めたり 押しつけない
同時にA先生の胸に去来していたことは、
「教職員の中で、教育の方針や方法を決して多数決で決めたり、押しつけてはならない。時間をかけて充分な話し合いをつくして合意形成するが、それでも合意が成立しなかったとしてもいい。話合ったことは、必ず教育に生かされる」
と言うことであった。
このことは、勤評をめぐるM小学校の教職員の話し合いの中で教訓化されたことであった。
このA先生の信条は、つい最近解ったことであった。
( つづく )
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