2013年5月3日金曜日

「特殊教育」は、「特殊教育を充分知っている先生しか出来ない」としなかった

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ( 解説 )

 A先生は、小学校の特別学級の取り組みを京都北部の教職員や保護者に呼びかけてすべての子どもたちに教育を保障することの大切さ、学習することで子どもたちが発達する事実を具体的に知らせて行く。

 特別学級での取り組みを絶えず公開し、批判や提案を積極的に受けとめそれを教育に環流するA先生の確固たる姿勢は、現代でも学ぶべきことが多い。
 
そればかりか、後世のために詳細な実践記録を書き残している。

 

 多くの人々は、A先生たちが親とともに養護学校づくりをはじめ、与謝の海養護学校が出来たところから与謝の海養護学校の教育を注目しているが、それは大きな誤りである。

 紆余曲折はあったものの1950年代からもう養護学校づくりの取り組みははじまっていたのだというA先生の話にもっと傾注する必要があるだろう。
 
  学校づくりは箱づくりではない 民主的地域づくり
         の本当の意味

 何かが出来て初めて注目することが多い中で、本当は「出来るまで」が大切なのだ。
出来て、それを守り発展させることは大切なのだ、という意味でA先生はその後「学校づくりは箱づくりではない。民主的地域づくりである」と言った。

「箱」
「民主的地域」


 このことの意味を充分理解せず、語録のように言っている人があるがこのことは、涙と血のにじむ中で作り上げてきた人々の労苦を理解するものでは決してない。

  「特殊教育」は
「特殊教育を充分知っている先生しか出来ない」
 としなかった

 さらにA先生の教育実践を「秘密主義」「ある種の魔法」「あの先生しか出来ない教育」などなどとしなかった姿勢は、現代の教育分野でも継承されていかなけてばならないことだろう。
 特定の分野は、特定の先生しか出来ない。

 そうしなかったために「特殊教育」は、「特殊教育を充分知っている先生しか出来ない」としなかった、としなかったのである。

 もちろん普通教育のアプローチだけで子どもたちへの教育をすすめたわけではない。

 幾度試みても子どもたちの発達保障が取り組めないこともあった。


 そのためA先生は、多くの先生に絶えず呼びかけ学習会を何度も開いたり、研究集会を開いたりした。
 このことによって、A先生の地域では特別学級が次々とつくられていく。

  勤務評定とA先生のとった態度

 1957年から58年にかけて戦後教育は大きな分岐点に立たされる。
 それまで、選挙で選ばれていた教育委員の公選制が、自治体の長の任命制に変わった。

 これは、戦前の国や行政の教育に対する直接的な介入を反省し、教訓化した教育基本法に真っ向から対立するものであった。

 また、教育委員の任命制のもとで,教員にたいする勤務評定が強行された。
 それは、それが教職員の団結を破壊し,教育の権力統制を意図するものとして教職員組合を中心に全国的に激しい反対闘争が繰り広げられた。

  すべての子どもに教育をということが
   再び軍靴で踏みにじられる

  A先生17歳。

 学徒動員で、自らの手で親友を「まるで魚を焼く如く長い鉄棒で荼毘にふした悲しくもきびしかった経験」の中で自分の「生きざまをつくり出す基礎」を創りあげてきた。

 
 そして、特別学級の子どもたちの教育を創りあげてきた。
 教師が、国・行政の下で評価序列化させられる。
 そして、またお国のために役に立つ子どもを教育させられる。
 それは、すべての子どもに教育をということを再び軍靴で踏みにじられるものであった。
 
 だから、A先生は身に迫る危険をも承知の上で断固反対した。
 教職員や地域の人々に勤評の問題を訴え続けた。

  勤評は、特別学級の子どもをはじめすべての子どもの教育を保障するものではない

 地域でも賛同も多かったが、教職員の逮捕という事件まで発展したこの勤務評定反対の取り組みに多く動揺も生まれたが、A先生は、逮捕された先生を擁護するため裁判で証言に立った。
 そして、勤評は、特別学級の子どもをはじめすべての子どもの教育を保障するものではないと凜と訴えた。
                                                                   ( つづく )

 

2013年4月29日月曜日

犠牲を教育保障に変えて行く行動と考え そのための第一歩 



 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ( 解説 )

 A先生が、特別学級をつくってた小学校6年後。
 1954年(昭和29)、A先生は、M市の小学校転勤になる。
 

 M市は、かって日本海に面した良港として栄えた都市であった。
 そのためM市の小学校の規模は大きく教職員や生徒の人数も多かった。
 ここでもA先生は、特別学級の必要性を説き教職員の全員の合意を得て特別学級がつくられていく。

  この頃の学校は、戦後の憲法・教育基本法のもとでは,教育の自律性,学校の自主性が大切にされ、学校長は、学校運営を民主的に行う能力とともに,教育的識見の豊かさ,教育上の指導力が求められていた。
  ところがこれらのことが次第に変えられつつある中での特別学級設置であった。

 
 二度目の特別学級をつくった時ごろから
 すべての子どもに教育をの実際の行動が

 A先生は、このM市の小学校には、列車を使わず自動車通勤した。
 当時高価な自動車を購入したのにはわけがあった。

 それは、ふるさとの小学校で京都府下で2番目の特別学級をつくったもののその学級にすら通えない子どもを、何とか異動した規模の大きな小学校の特別学級に通わせたいという思いがあったからだ。

 機織り機械工場で働く両親は、早朝から機械に追い立てられて重度障害の子どもの面倒もみる時間もない。
 ましてや、学校に連れても行けない現実をA先生は直視していたからである。





 この子には、とてもとても教育なんて考えられない、と言い切る両親の姿の背景を見ていたA先生は、異動した小学校の特別学級に子どもさんを通わせないか。
 朝は、自分の自動車に乗せて学校に行く。

 帰りは、両親が機織り工場の合間をぬって子どもさんを迎えに来られないか、と言う提案だった。

 両親は、考え抜いてA先生の誘いに甘えさせてもらうということになる。


  いったん
 自己犠牲をしてでも子どもたちの教育保障をすすめるが

 広大な地域。
 過疎が押し寄せ交通の不便さは昔よりはるかに悪くなる中でのA先生の自家用車を買うという決意。
 この決意の背景には、A先生の家族の支えがあったが、A先生の心の中はいつまでも自分の車で子どもたちを乗せていくという考えはなかった。
 いったん、自己犠牲をしてでも子どもたちの教育保障をすすめるが、この自己犠牲だけでは限界がある。

 教育を保障すると言うことは、子どもたちが学校の門をくぐって初めて実現することではない。
 


 玄関から学校に行けるまでの間も
教育保障なのだ

 子どもたちが、学校に行けるようにしてこそ、教育保障がはじまる。
 玄関から学校に行けるまでの間も教育保障なのだという揺るぎのない考えがあった。
 だから、子どもたちや子どもたちの家族、教職員の犠牲を内容にしてこそ教育保障であり、これを国や地方自治体が保障すべきものなのだという考えは、A先生が死ぬまで言い続け、行動したことであった。

 いったん教職員で受けとめるが、その有効性を行政に示して、行政に保障させていくという行動。

 自家用車は、養護学校のスクールバスに変わっていくまでにずいぶん月日が経つたが、A先生は、それを引き出す第一歩を歩み出したと言ってもよいだろう。
                                                                                    


                                            ( つづく )

 

2013年4月25日木曜日

見えてきた光と影の中でA先生の苦悩

 


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ( 解説 )
 A先生の特別学級(Special education classes)をつくろうと提案し、全教職員の一致で特別学級(Special education classes)がつくられたことは、その後の学校教育や学校そのもの、教育とは何かを指し示すようになってい行く。

「アホ学級」と言い続ける子どもたちに
注意をしたり、理解をもとめるようなことはしなかった

 特別学級(Special education classes)は、一定の生徒への教育的取り組みで普通学級に戻ることも出来る子どもも、そうでない子どももいた。

 親の中には、特別学級(Special education classes)に我が子が入級することに激しい抵抗を示す人もいた。
 また生徒たちの中で特別学級(Special education classes)の子どもに直接「アホ学級」と言い続ける子どもたちもいた。

 だが、A先生は「アホ学級」と言い続ける子どもたちに注意をしたり、理解をもとめるようなことはしなかった。また、全校の各クラスで、特別学級(Special education classes)の理解をする時間を設けることなどをしなかった。

 特別学級(Special ducation classes)の子どもたちへの回りの理解を特別求めることをしなかった。あまりにもひどい状況以外は。

 このことは、最近の特別支援教育なり、特別支援教育委員会なりの「啓発書」なり研究会、学習会とまったく異にした取り組みだろう。



  
      毎日、毎日学校に行きたいと

 まず、A先生は、子どもたちがいきいきと学校に来て特別学級(Special education classes)の勉強がとても楽しい取り組みをした。
 すると、日曜日でも夏休みでも子どもたちは、学校(特別学級ーSpecial education classes)に行きたいといって駄々をこねるまでなって来た。


 また、何度も何度も家庭訪問をして、親と徹底的に話し合った。
 野良仕事に疲れ果てたり、縮緬織りの手を休める事の出来ない親とも最大限の話し合いをした。

 A先生の自宅は、小学校のすぐ近くであったが、帰宅はいつも深夜だった。
 身を粉にしながら、A先生は地域の人々の労働と教育への期待をずっしり受けとめながら、特別学級(Special education classes)の子どもたちの未来の教育を考え続けた。

  「アホちがう。」
「一生懸命勉強しなる」

 特別学級(Special education classes)の子どもたちが毎日楽しく勉強していることや笑顔一杯のようすを見て、「アホ学級」と言っていた子どもたちが次々「アホ学級」をのぞきにに来るようになり、「ぼくもあのクラスで勉強したい」と言い出す子どもも出てきた。

 このようになると、もうみんなのあこがれのクラスになり、「アホ学級」と言う子どもは少なくなってきた。
 「アホちがう。」「一生懸命勉強しなる」

 子どもたち自身が子どもたち同士の中で理解の輪を広げていった。

 クラスへの入級を反対していた親は、自分の子どもの笑顔が甦り、楽しそうに学校に行き、学校で勉強したことを話すようになると、「反対していたこと」を忘れ、子どもと共に喜び合う事が多くなってきた。
 
 子どもの未来の暗闇に光がさしこみ、その光の中わが子が居る喜びが広がった。

 だが、その地域には、まだ学校の門を一度もくぐったことのない子どもたちが居た。

 就学・猶予免除の子どもたちであった。
     

                           ( つづく )