教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
幸せになりたいと思っている生徒たち
学校の「校則」が教育の名の下に生徒たちの精神衛生を悪くし、学ぶべき生徒たちの自由と平等が窮屈にされているとしたら本末転倒だ。
自分ののことがキライ。
人が信頼できない。
家でも学校でも自分に自信が持てない。
だけどなんとか人のために生きることを求め。
幸せになりたいと思っている生徒たち。
今を生きる仲間として、幸せになるための答えを考え、行動したいと思う。
貧困の連鎖を断ち切るための第一歩。
生徒たちからの声に どのように一歩が踏み出せるのか
憲法はどう教えてくれるのだろうか。
今日も通勤の早朝、深夜の道を走りながら、生徒たちからの声に、どのように一歩が踏み出せるのか、頭をひねり続けている。 (了)
1年生の時は、健康診断の未受診の部分があって先生と一緒にA市まで車で連れて行ってもらいました。
その時、家の事情や悩みを聞いてもらって、受診が終わった時検診していただいた方に「菜菜は、ありがとうって言えないな」って先生から言われたんずっと覚えています。
それからは、保健室に行く時は帰りは、「ありがとう」って言って帰ろうと決めて言い続けました。
1年生の時は、本当に迷惑ばかりかけて、泣いてばかりしてても、笑ったやさしく話を聞いてくれた先生。本当に大きな存在です。
これからは、どんどん大きくなって、いつものパワーでがんばるからね。先生も身体に気をつけてがんばってね。
言葉で伝いきれへんぐらい、ありがというございました。
昨日は何時間もありがとうございました。
治療費のことと学校のことで嘘をついていたこと、お母さんに全部話しました。
お母さんも分かってくれて、
「高い治療費のことは大丈夫やし、気にしんとき。それに今、少しずつ薬も減らせるようになっているから80万円もかかれへん。」
って言ってくれました。
私、このことで先生に嘘を言いましたよね。
でも、いつも相談にのってくださり、支えてくださったのに裏切るようなことして本当にごめんなさい。
もうこんなことは二度としません。約束します。本当にすみませんでした。
お久しぶりです。
突然なんですが、卒業して一日中仕事をするようになってから「いびき」かくようになってしまったんです。それまでは全然なかったのに。
疲れもあるのかなぁ、と思ったけれど、疲れてない時もあるし。耳鼻科行って診てもらったけれど、もともと鼻炎で鼻悪いし、首も細いし「いびきかく体質じゃないか」って言われてん。
どうしたら「いびき」治る?耳鼻科では、アカンの?もぉ一生いびき書きたくない。
自分で予防できることあったら教えてー!!
いきなり、へんなお手紙お許しください。
3年間お世話になり、ありがとうございました。
親も知らない子の悩み、体調を崩したことも数多く、その度に保健室の先生お世話になりましてありがとうございます。
毎日のように保健室の先生と話したと聞いております。
保健室という、こころのやすらぎの場所がなかった無事に卒業出来ていたかどうか。
入学した頃は、不安でいっぱいでしたが、先生方や友だち、いろいろな経験のおかげで、こころも身体も強くなったと思っております。
一応、人生の目標を持っているみたいなので、今までの経験を大切にして自分なりにしっかり考えて、後悔のないように進んでくれたらと望んでいます。
本当に必要以上に保健室に通っていた子ですが、相手にしていただき感謝の気持ちでいっぱいです。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
学校全体が 安全で 健康に なっているだろうか。
保健室から教職員に伝えたいこと。
保健室に来て生徒と話し、生徒の声を聴いてほしいこと。
生徒が保健室から出てくる時は、笑顔で出てきていることをとらえてほしいこと。
保健室では、生徒が、学校のどの部屋にいても言い方ややり方は間違っていたら、駄目なことは駄目と伝えていること。
決して、生徒の言うことをうのみにして、ウンソウネ、と肯定ばかりして、共感だけしていないこと。
保健室は、生徒の健康の度合いを知ることだけではなく、学校全体の健康度をしり、学校全体が安全で健康になるようにしていること。
だから、保健室が生徒であふれかえるのは、教育課題が学校にあることとして考え、教育改善の方向をあきらかにするすること。
これらのことは、くり返し、くり返し提起をしてきた。
保健室への来室許可条件は 必要がないはず
保健室や養護教諭に対してよく出されることやある意味で「強要」されることがある。
それは、
「保健室への来室許可条件はないのか。熱が何度と言う基準を設ける必要がある。」
などなどのことである。
ある学校では、ふらふらになった生徒が担任の認め印がないからと保健室へ行けず、寒い廊下で待たされる。
生徒のたまり場になるから、と「保健室閉鎖」が行われ、意欲に燃えた養護教諭が職員室で生徒の対応をさせられる。
「保健室を開けてください。」
と懇願しても「開けられない」のひと言ですまされ、私たちに相談があった。
養護教諭たちでその高校を見に行くと、特別支援教育に熱心に取り組んでいる、と言われるけれど養護教諭はその輪の中に入れようとはしない。
開かずの保健室が、どんどん増えている。
このことで、いくら調査研究しても、保健室だけの問題としてとらえるのではなく、学校全体の安全と健康の取り組みとして問題をとらえない限り、解決しない。
安全で健康な学校、安全で健康な生徒たち。
安全で健康な教職員に包まれていかなければならない。
保健室の来室条件規定などは
生徒の心の冷静さを失わせる
保健室の来室条件規定などの考えは、生徒の心の冷静さを失わせる。
1998年に栃木県 黒磯北中学校で起きた産休明けの女性教諭が、生徒にバタフライナイフで刺され死亡した事件は、私たちには忘れられない事件として残っている。
当時、京都の教職員の中では、その女性教諭の生徒への発言やバタフライナイフを学校に持ってくること、生徒が「キレル」ということが問題にされた。
しかし、私たちは、教職員の労働安全衛生から考えてもマスコミ報道や教職員の多くの印象に問題が含まれていると考えていた。
後日、私たちは、女性教諭が刺され死亡する前の生徒の状況を細かく知ることが出来た。
保健室滞在許可が
悲劇を招いた大きな要因のひとつである
とは考えられていないが
黒磯北中学校では、保健室滞在許可なるものが決められていて、その基準は体温だった。
熱が保健室に行く「許可条件」に達していないとして、不登校ぎみだった生徒は、トイレで嘔吐し教室にも行けず、保健室にも行けず、休む先さえなかった。
その時、廊下で教室に入るように教職員にうながされ、無理に教室に入れられた。
その結果、女性教諭を殺害する事件が起きたのである。
保健室の滞在条件、体温の基準、その尺度だけ測ることは、人間教育の場としての学校の教育力が問題になったことなのだが、殺傷という結果だけで問題が話され続けられていて、その前段階は問題にされていない。
先生今までいろいろ本当にありがとう。
転校した学校は、もう今日で終わりです。
先生は、大人やのにうちがアホなこと言っても怒らへんしちゃんと話も聞いてくれるし大好き♡
しんどくなったら、いつも話を聞いてくれてありがとう。
もし、先生がいーひんかったら病気がもっと悪化しているやろうし、学校も中途半端にやめて、友だちにも本当のことが言えんままやったと思う。
先生のおかげでうまくいきました。
二年間だけやったけど保健室の先生に会えてよかった。
この前友だちとユニバに行ってきてよかった。お土産食べてね。
今まで本当にありがとう。
これからもお世話かけるしよろしくね。
( 新つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
なにかが あるからやってくる
保健室では、来室した生徒には、
「なにかが あるからやってくる」
ととらえ、まずは生徒を受け入れ、共感しながら理解しようとしている。
生徒には、
「なーに?」
と養護教諭が眼を向けてるが、生徒自身がどうするべきかを考えられるようにしている。
それは、共感や生徒の現状を「安心させる」「肯定」「自分を尊重」するだけでは、その場の一時しのぎになってしまうからである。
養護教諭は、日々生徒たちと接している。
だからこそ、「生徒自身がどうするべきかを考えられる」ことが大切と考えている。
「どうしたの?だまって入っちゃわからない」
「どうしたの?黙って出てっちゃわからない」
だから、保健室の出入り口の扉には、
「どうしたの?だまって入っちゃわからない」
「どうしたの?黙って出てっちゃわからない」
の文字が背中合わせにはりつけてある。
養護教諭になって30年がすぎた。
生徒たちは、変わっても、保健室のあり方や、生徒理解のための教職員との共通認識の難しさと大切さは、変わらないでいる。
保健室は、学校の中の一つの部屋ととらえられていたのは、夜間定時制勤務の時だけだった。
つねに社会という大きな枠で生徒の課題を共有できた。
そのため、多くの生徒の理解のためのヒントも交換できた。
その時間も充分つくられた。
生徒理解のための意見交換
知恵を練ることが時間的に許されない
現在の高校では、情報は多く、生徒たちをていねいに見て考える教育課題が見出されるはずである。
だが、教職員と生徒理解のための「共有できる」ことや、意見交換して知恵を練ることが時間的に許されない。
3年間 お世話になりました。
ありがとー
先生は学校の天使や♡ と私は思います。(*^o^*)
保健室のグータラで、グラ・グラの空気が大好きでした。
手紙が苦手なので、私の詩を贈ります。
先生は、ほんま常に優しかったです。
ずっと薫の味方をしてくれていてくれた。
一年生の時も、二年生の時も泣きついたことが多く困らせたよな。
ほんまにごめんなさい。
でも先生がずっと話を聞いてくれて、見ていてくれたからこの通り元気になりました。!!
最近めちゃくちゃ思うけれど、一年生の時と別人になった気がする。
それだけよい友だちとめぐり会えました。
いろいろ大変やったけど、もう大丈夫。
でも、きっとアヵンくなる時は、また会いに来るから支えてくれますか!!
お願いします。
遅刻・早退・しんどくなって、ほぼ毎日保健室に通ったよな。
先生の顔を見るだけで、落ち着いて、辛い時は勝手に涙出てきて甘えたり……保健室の思い出が たっっっくさん!!
いっぱいお世話してもらって、ありがとうございました。
( 新つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
「反社会的なことをしない。」「いのちを大切にする」だけの校則を
一日保健室の来室する生徒が常時100名前後。
あまりの多さに教育の課題を深く感じる。
学校の校則は、
「反社会的なことをしない。」
「いのちを大切にする」
の二つでよいのではないか。
校則をあまりにも細かく決める、もめ事が起きるとさらに細かくなる。
このことで、生徒の持つ自由と平等の考えはひろがらない。
もっと生徒の持つ自由と平等を広げることで、生徒たちは学んでいくものだと思う。
「平等指導」は難しく 逆に生徒の「身体の自由」を奪う
説明のつかない一方的な髪の色を染め直すことでの帰宅指導は、学ぶ権利をうばうばかりか生徒の反発を強めるだけだと思う。
髪の毛の色の「平等指導」は難しく、逆に生徒の「身体の自由」を奪いかねない。
もともと生徒たちの髪の色は違う。
茶色い毛の生徒までもが、髪の毛の色の「指導」のために周囲からの心地よくない視線が浴びせられる。
そう感じていない、と思われている生徒も、感じなくてもよい心地よくない気持ちを抱かされてしまっている。
私服を着るときに服装を考え、悩むことのほうが大切ではないか
髪染色は、身体に悪いと髪の毛の色の「指導」され、髪染色は身体に悪いからと、黒色に染色するように指導される。
このことに生徒たちは矛盾を感じるが、「髪を染めた自分が悪いのだ」と言い返されて、生徒は混乱してしまう。
好みや感覚さも不平等を生みだす。
説明のつかない事柄は、教育現場には向かない。
化粧や服装も。私服を着るときに服装を考え、悩むことのほうが大切ではないか。
制服姿を何もかも規則通りに守るより、私服と場所がらを考えて、悩むことの方がもっと必要だと思う。
そこには、生徒たちの思考の豊かさが大きくひろがると確信するようになった。
むっちゃ嬉しかったよ
いつもお世話になりまして、ありがとーございますたっ。
お茶とか、カイロとか、湯たんぽとか、先生ーみっちゃスキです。
っていうか、保健室スキでしたっ♡
いつも ほんまにやさしくしてくれて、むっちゃ嬉しかったよ。
短い間やったけれど、ほんまに色々ありがとう!
高校生活は、すごく充実してよかったです。
楽しもうと思ったら、何でも楽しめるものやし、楽しむこころが大切やなぁと思いました(^_^)
髪の毛の色の「指導」などでさんさん、叱られ、帰宅指導された生徒たちが、贈ってくれた手紙には過去のトラブルよりも、豊かな気持ちと楽しさが残っている。 ( 新つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
具体的行動の中で 自分を確かめ 生きる方向を
保健室にやってくる生徒の多くは、
「自分がキライ」
「うっとおしい奴」
「友だちどうしで話せない。」
「家も、教室も落ちつけへん」
「友だちにキショイって言われる」
「死んだらいいのや」
「教室がうるさいから落ちつけへんねん」
「先生は、怒鳴るだけ。そこら中で聞こえるやろう」
「ガミガミ ガミガミ」
と自分で自分が分かっているように言うが、自分を全面否定している。
よくよく聞いてみると、
「誰かの役に立ちたい。その実感を持って生きたい。」
と具体的行動の中で、自分を確かめ、生きる方向を追い求め続けているようだ。
多くの生徒が前向きな思考を望みながらも
産まれてきた意味や自分の存在への問いかけ。
学ぶことの意味について、ぐっぐ、ぐっと迫ってくる。
多くの生徒が前向きな思考を望みながらも、家庭の経済力や学力と自分の位置と言う現実を突きつけられて、マイナス思考にならざるを得なくなっている。
そんな悩みを持っている友だちが多いのに、メールのやりとりは出来ても直接会って話をすることが出来ないでいる。
お互いが会話出来ないで深刻になっている
「友だちにキショイって言われる」
「死んだらいいのや」
と言われる生徒の回りの生徒の様子を調べても、回りの生徒の話し方がそのような言い方しか知らないことも解ってきた。
コミニケーションの方法が解らず、
「キショイ」「死んだら」としか表現出来ず、
友だちになろうとしているのにその逆の言い方をしていることも解ってきた。
そこで、「友だちにキショイって言われる」「死んだらいいのや」と言われている生徒に、
「なーんにも悪い子としてないやろう」
「ウン」
「それなら、からかられても堂々としたらいいの。」
「ソウカナアッ」
「先生が応援してあげるから、なーんにも悪いことしていない。堂々と気にせずにね。」
と話たら、
「先生!いじめられなくなったわ」
って喜んで保健室にやってきた。
またある生徒は、
「いじめられても保健室にきい日あったけど、保健室があるから、と思ってきいひんかったんや。」
「保健室がなかったら、たえられへんやったやろうなあ」
と言ってきたりすることも多い。
生徒が、生徒同士顔を見ながら話せば、すぐ分かり合えることなのにそれが出来ないでトラブルになることもしばしば。
結局、「なーんだ。あなたも同じ気持ちだったの。」となる。お互いが会話出来ないで深刻になっていたことが、トラブルの後で分かるのであるのだが……。
( 新つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
「すべて人々が健康に」「あなたへ健康メッセージ・健康診断断結果」カードなどを作成し、生徒の健康をトータルに知ることに努めた養護教諭は、山城高校定時制の取り組みの教訓を基に創造的な健康教育を現在もすすめている。
その取り組みの一部を紹介させていただく。
ただ今 パニクり中。気分が晴れるまで
今日も校庭を通過して、ぶらりと冴えない表情の男たちや女生徒がそれぞれ散歩している。
制服のポケットには、
「ただ今 パニクり中。気分が晴れるまで少し歩かされておいてください。
授業の邪魔はしません。よろしく。保健室」
と書いた厚紙を入れて持ち歩いている
ときには、近くの「神社の裏山の展望台」まで「散歩」。
ささくれ立ったこころが滑らかになっていく
学校の近所のおじいちゃんやおばあちゃんが仲よく手をつないでいたり、親子連れが、聞こえてくる鳥のまねをしながら通りすぎたり。
「こんちわ~」
と声をかけてもらう。
固まっていた気持ちや、ささくれ立ったこころが滑らかになっていくのが実感できるようで、冴えない表情がやわらかい豊かな表情に変
化する。
そして、学校に戻ってくる。
納得出来んの
毛の染色で帰宅するように言われたけれど
本校の保健室の来室者は年々増加傾向。
2009年前頃から、増加の一途をたどり、年間4000人以上、6000人以上、7000人となり、念願の養護教諭複数化が、実現し、専任講師から正規の養護教諭の二人で対応出来るようになった。
保健室には、全校の80%が来室して保健室に入れない生徒が廊下で待つこともしばしば。
「髪の毛の染色で帰宅するように言われたけれど納得出来ん。」
「すぐ家に帰って髪の毛を黒く染めて来いって。」
「ある先生は、その程度やったらいいと言い、ある先生はダメと言い。今日はすぐ帰れって 納得できないの」
「保健室の先生は髪の毛を染めるのは、有害物質を頭にかけるようなものって言ってたけど。すぐ真っ黒に染める毛染めはもっと有害なんやろ。」
「土、日で染め直してくるから今日は許して、って言っても聞いてくれはれへん」
と自分のことと先生の言っていることを筋道たてて話せず、何かがおかしいけれどうまく言えない、と混乱している女生徒。と、また
「先生……先生にスカートとりあげられる」
びっくりして充分聞けば、
制服のスカートの丈が短いから家に帰って長いスカートにはき替えて「短い丈のスカートを先生に提出」するよう言われたとのこと。
「親に、何度も何度も、死ね、って言われた。傷ついてしかたがない」
「聞いて聞いて」
と騒がしく保健室にやってくる生徒。
無言のままおとなしくして保健室にやってくる生徒。
養護教諭は立ちっぱなしで対応しても保健室はすぐ満員になる。
教師の発言に瞬間的にいら立つ 保健室はいつも満杯
ここ数年は、クラスの居場所、家庭の居場所、友人関係のトラブルが多い。
イライラした気持ちを自分に向けリストカット。
過呼吸。
お腹が痛い、頭が痛いは、日常的。
夏は熱中症になる生徒が数え切れないほど。
バイト先での外傷。自宅での外傷。で治療を受けながら保健室にやってくる生徒も少なくない。
また、精神疾患になっている生徒も多い。
保健室に来て、しばらくして帰る生徒も。
授業が分からない。
慢性の睡眠不足。
授業中の教師の発言に瞬間的にいら立つ。
保健室は、生徒がいない時はない。
授業中であろうと、休憩時間であろうと、自分の中に納めきれないものがあると「すぐ行動」にでる。
テストの日でもすぐ帰らない。
日々の学校生活の中で自宅に帰りたくない生徒の居場所が、保健室になっている。 ( 新つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
先生おれのこと知らんと思てたわ
一学期の終業式。
この「あなたへ健康メッセージ・健康診断断結果」カードは担任の手から渡されたのですが、その日すぐうすいブルーのこのカードを片手に15名程の生徒が保健室にやってきました。
「先生おれのこと知らんと思てたわ。」
と照れくさそうに来た生徒。
23日後に
「何でおれらの時あんなカードくれへんかってんな。」
と現在在籍している弟のカードを見たらしく今年卒業した生徒が言いにやってきました。
このことは悩んで1カ月程前から書きあげていったことが救われた、と同時にまた新たな発見もできました。
(1)「あなたへ健康メッセージ・健康診断断結果」カードを大切にして何度も読んでいる生徒がいること。
(2)尿検査を自ら受けに来るようになったこと。
(3)カードに記入してあることや読み方がわからずに聞きにやってくる生徒があり、その中で自分のからだのことと健康のことを知ろうとする動きがあること。
また生徒同士で健康を学び合うという動きもみられました。
生徒の健康状況をトータルにつかみ
個別の教育課題が見い出せる
これらのことは主体的に自分の健康課題にたちむかおうとする動きが生じはじめていること。
定時制全体の生徒の健康状況をトータルにつかみ個別の教育課題が見い出せるようになってきているということではないでしょうか。
しかし、よりよい健康教育をすすめるためにいくっかの課題があげられると思います。
① 「すべての人々が健康に」をめざして、まず若者らしく積極的に健康課題に立ち向かう意志が弱い。
しんどいから、いやだから、おもしろくないから、とすぐに中途半端にする、やりきることの自信と喜びを味わうことがむずかしく生きる展望が持てない。
② 職場の中では自分の意志で行動せず言われるまま。
疑問や問題意識やねがいを持って生命や健康をおびやかしている環境や生活条件に目がむかない。
③山城高校定時制の教育をすすめていくための健康調査カードであるが生徒ひとり一人の課題を明らかにして学校全体のものになりきれていない。
教育活動とは
生徒を直接対象にして指導する活動をいいとなっているが
山城高校定時制の内規の中で
『教育活動とは本課程の教育課題にもとづいて生徒を直接対象にして指導する活動をいい、教科指導、生活指導、進路指導、保健指導及び自治活動は主として教員(養護教諭を含む)が行う』
と示されています。
しかし独自な実践と全体の実践との統一が不十分な現実の中でその統一をめざすことも大きな課題としてとりくみたいと思っています。
バラバラにされても
教育の取り組みをすすめた教師たち
1990年代になって山城高校定時制は、京都府教育委員会からさまざまな嫌がらせを受け、教職員の強制異動や生徒の入学制限などが行われた。
結局、山城高校定時制は廃止されたが、山城高校定時制の教育で学んだ教育実践の教訓を異動された高校でも実践している教職員は少なくない。
「あなたへ健康メッセージ・健康診断断結果」カードを作成した、養護教諭の現在の教育実践報告を次回に掲載したい。
( 新 つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
定時制高校の現状で述べたように勤労青少年の高校教育を保障するという定時制高校の役割が、今ではそれだけにとどまらずすべての高校教育を希望する青少年の要求に答える、という役割を負っています。
根深い劣等感が 創造的なとりくみでとりのぞかれていく
山城高校定時制でも二次の学力検査の入学者が一次の三倍もあります。
そしてその合格者の9割以上が全日制や私学など複数の高校に失敗した上で入学してきます。
その根深い劣等感が学校全体で生徒の実態をふまえた創造的なとりくみでとりのぞかれていくのです。
ところが今年は例年に比べて劣等感からの立ち直りが遅くより「奥深い劣等感」がみられます。
必要性を痛感した 生徒の健康をトータルに知ること
こういった現状の中で一人ひとりの生徒をトータルにつかむことの必要性を痛感しました。
それを私たちの手元にある資料として考えた場合、中学からの調査票、高校でとる保健調査。
そして入学後の面接などその他と大きく三っにわけて、その三っの中で私たちが教育上の重点的指導を必要とする生徒をどれで知ったのかを調べてみました。
すると調査票30%、保健調査63%、その他7%ということで生徒をトータルに把握する上で保健調査はかなりを占めているということがわかりました。
そのため保健調査の方法や内容を検討し改善をはかりました。
健康について
「どんなねがいがあるか」を
特に親のねがいなど具体的に書ける工夫をし、家の人達、生徒たちの健康について
「どんなねがいがあるか」
を明らかにしそれにこたえる教育実践をということで内容改善をはかつてきました。
作製した「健康調査カード」を職員会議で提案し、決定され実施することになりました。
また「調査」だけに終るのではなく生徒一人ひとりの個別の課題をみっけ一人ひとりに返していくことが、健康教育としては大切ではないかと考え、従来生徒に渡していた「健康診断結果」の形式や内容にも改善を加えました。
すべての人々が健康に
このカードをわたすことによってまず自分のからだを知り、課題を見い出し協力し、みんなが健康になれるよう
すべての人々が健康に
というタイトルで「個人カード」を作製しました。
このカードにはまずカードの意味WHOの健康の定義を示し、生徒の健康状況を記入しました。
そして養護教諭としてカードの最後に彼ら一人ひとりの課題をみつけ返していくことで、決して自分の健康は自分の力だけで守るのではない。
どうすればみんなが健康になれるのかそれをみんなで知恵を出し広めていこうということで
「あなたへ健康メッセージ」
として書きそえることにしました。
子どもが横で見ていて
それは書かんでええ、それはいらん、て言うもんですから
「健康調査カード」とともに
「生徒のための健康カードご記入の前に」
として父母あての文章もつけ、入学した生徒に手渡しました。
この健康調査カードは82%の生徒から返ってきました。
中には
「子どもが横で見ていて、それは書かんでええ、それはいらん、て言うもんですから書かれへんかったんです」
と言って保健室に話しに来てくれたお母さんもいました。
ここには従来私たちの学校ではあまり聞かれなかった健康にっいての親子の会話が生まれてきていることも知りました。
「ぜんそくが早く治ってほしい」
「4年間病気もせず、元気につづいてくれるか心配です。」
「生まれた時は未熟児で弱かったけれど高校生活も最後までがんばってからだも大きくなってほしい。」
「学校に来るのが楽しみやという毎日であってほしい。」
など子どもたちへの素朴なねがいがいっぱいでした。
細かい文字で生徒の生まれた時から現在までの生活ぶりを用紙いっぱいに書いてあるものもあり、このねがいが生かせるように学校教育全体の中で考えなければならないと痛感するものばかり。
父母や生徒の健康への熱いねがいを知ることができました。
健康診断をまったく受けていない生徒たちに
学校にまだ数回しか顔を見せていない生徒たちにも
そして、健康調査カードにもとづき学校医とも相談しながら、例年のごとく健康診断が終った頃を前後して健康調査カードの「ねがい」を書きぬき何度も目を通し保健室にやってくる生徒たちの様子を書き置き、健康診断の結果をながめました。
それから、教科担任部会で出た意見も参考にして何とから一人ひとりの課題を見っけて彼らに返していこう。
健康診断をまったく受けていない生徒たちに、学校にまだ数回しか顔を見せていない生徒たちにもすべての在籍する生徒たちにも。
それが何らかの彼らの生きる上での積極的な姿勢になるためのとっかかりにならないか。
そして健康診断にっいても必要性を考えるものにならないか。
そんなねがいのもとに
「すべての人々が健康に」の個人カード
を一つひとつ記入していきました。
そして、個人カードの最後のページに「一人ひとりの生徒に健康メッセージ」として生徒の課題を記入していきました。
( つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
このブログで、聴覚障害生徒や国語の女性教師の記録を掲載してきた。
国語の女性教師の記録には、特に書かれていないが聴覚障害生徒も一緒に取り組んだ教育実践だった。
「耳が聞こえにくい」「耳が聞こえない」
と言うだけではすまされない
多くの場合、聴覚障害生徒に視点をおいた報告であったり、健聴生徒から聴覚障害生徒を見た視点であったりする。
だが、山城高校ではすべての生徒のなかに聴覚障害生徒がいるという考えであった。
また、聴覚障害生徒の記録にあるように聴覚障害だけではなく、肢体不自由、中枢神経系の問題、視覚障害などなど多くの障害もあった。
だから、単に「耳が聞こえにくい」「耳が聞こえない」と言うだけで事はすまされなかった。
また、「聴覚障害があるから特別配慮するのか」という一部の教師の痛烈な批判。
保護者や他の難聴教育、ろう学校の一部から「特別配慮」をしていないではないか、という強烈な批判に晒された。
「特別扱い」「特別配慮」
の意味合いがまったく異なった立場からの批判だった。
京都の学校と他府県からの訪問が続出したが
また、京都府下の小学校、中学校、高等学校から山城高校の聴覚障害教育を聞きつけて数え切れない相談もあった。
他府県からの訪問も多くあった。
特に印象深かったのは、O県の親の会のみなさんの訪問だった。
約束の時間がすぎても来られない。新幹線の遅れかな、と心配していると急いでやってこられたときには、もう1時間もすぎていた。
親の会のみなさんは、
「山城高校という門まで早く来ていたんです。でも、出てこられる人はみんな大人びていいて、どこかの工場に違いないと思い、あちらこちらを探して聞いたんですが、やはりここが山城高校だと聞いても信じられなかったんです。」
「制服を着ていないし、みんなそれぞれいろいろな服を着て高校生に見えなかったんです。おくれてすみません。」
と言う話だった。それから山城高校の取り組みを話合ったが、
「何もかも信じられない」
「そんなことも出来るのですね」
と親の会のみなさんが帰られていった。
「特別扱い」「特別配慮」と言うことの問題で悩んでいたとき、養護教諭が重要な提起をしてくれた。
以下その時の文章を掲載したい。
健康やて
そんなもん自分の体やし
一番よう知ってるわ
定時制高校に来て5年。
はじめてぶつかった問題が健康診断未受検者の多いことでした。
「おれら仕事場で健診してるしいらん」
「健康やて。そんなもん自分の体やし一番よう知ってるわ。しんどかったら病院行くわ。」
こんなことばを受けながら果たして健康診断が彼ら自身のものになっているのだろうか。
学校での健康診断とは何だろうか。
明らかに健康診断で病名を言われる現在4年生の生徒の1年時しか記入されていない健康診断票などを前にしながらさまざまな疑問や思いが私の中にわいてきました。
そんな疑問を持ちながら保健室に来るさまざまな生徒たちと接していました。
授業に参加できない生徒、毎日保健室の鏡を見てそして教室に行く生徒、彼らの生きる力となるものは何だろう。
何が必要なのだろうかと考えはじめ、ある事例にっいてのかかわりやとりくみというのではなく問題提起として述べたいと思います。
労働条件や労働衛生など問題にならないほどお粗末
この5年間をみても生徒のおかれている状況も変わってきています。
仕事も正式ではなくアルバイトやパートの者がかなりを占めているし、その中での労働条件や労働衛生など問題にならないほどお粗末なものです。
お腹がすいても時間通りに食事はとれない。
病気になっても休めない。
怪我をしてもがまんする。
そんな中で彼らは「抵抗」も反発のことばも出さず言われるまま「働いている」ように見えます。
学校では教師の言うことやることすべてに反発し「つっぱる」一面をみせる生徒も仕事場では「ぜったい服従」の傾向が増えてきています。
そして労働環境から生じた身体の不調や怪我を持って登校し保健室に来て
「仕事休まれへんさかい薬おくれ。」
「仕事の怪我やねんさかいしゃあないわ。」
と言ってきます。
学校ならなんとかしてくれると思っているようです。
自分で何とかするよりほかないと思いながらも
そうではすまされない「矛盾」を私たちに投げかけている
これはやはり自分のからだは自分で何とかするよりほかないと思いながらもそうではすまされない「矛盾」を私たちに投げかけているように思えます。
学校教育の中で健康教育の分野にたずさわっている私達としてまず生徒が自分のからだを知るそして健康を阻害しているものに目を向け決して自分の健康にとどまらずみんなが健康になるために知恵と力を出せるように考える機会をもっと増やす必要があるのではないかと考えました。
( つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
小さいことではあるが それなりの工夫をして
体育祭の時の一年の目標というのも各クラスの担任副担任が、生徒の現状を出し合い、体育祭をとりくむにあたっての学年の課題は何かという討論を粘り強くつみ重ねていく中で生まれてきた。
そうして、ひとりでも多くの生徒をこの体育祭に参加させ、優勝に向って力を発揮させるためには、どんなことができるのか、様々な力量や条件をもった各クラスの担任がそれぞれに出し合い、
「これなら私にもできる」
ということで、個別の分野で指導しつつ、ひんぱんに担任会をもち、全体の進め方を確認していったことが、このとりくみを成功へ導いた要因である。
限られた条件の中ででも、やれることは何かをどこまでも追求していくことが、生徒を変えていく力になるのではないか。
今はそんな気もちで、家庭訪問がしにくいのなら、家庭にひんぱんに電話をして、なるべく多くの父母と話そうとか、教室には休み時間などにできるだけ顔を出して、機会を見つけては生徒と話をしようとか、小さいことではあるが、それなりの工夫をしている。
とうの昔に脱落していただろう
テレビドラマの○○先生になれと要求する職場なら
人並みはずれたがんばり屋でもなく、非行と真正面から立ち向った教師の記録などと銘うった本に登場するような勇気や行動力にあふれた教師でもなく、ましてテレビドラマに描かれる万能教師でなどあろうはずのない私が、この五年間山城高校定時制でやってこられたのは、こうした教師集団の中で互いに補い合い、支え合い、その中から実に多くのことを学んだからである。
これが、私のような条件の教師に、テレビドラマの○○先生になれと要求する職場であったら、とうの昔に脱落していただろう。
先生、赤ちゃんが生まれたらやめるんやろ
子供どうしてる?
大きなお腹をかかえて授業をしていた頃は
「先生、赤ちゃんが生まれたらやめるんやろ?」
とか
「母親が勤めてたら子供がかわいそうやで」
などと生徒からよく忠告?を受けたものだ。
しかし、この頃は
「子供どうしてる?」
とか
「学校に連れて来たらよいのに」
とよく声をかけられる。
私の子育てが、生徒の中にも一定の理解を得てきつつある……などという解釈は私の勝手なこじつけであろうか。
絶望的な気もちになることがあるのも事実
あれができる これができる これもできるようになった
という見方をすると
だが、現実の授業の場面で、ガムをかみながら、横向きに座って私語をしている生徒たちを前にする時、
「授業をうける態度ができてない」
とか
「これほどのエチケットも知らない」
とか、
「漢字が読めない」
「文章が書けない」
と絶望的な気もちになることがあるのも事実である。
そんな時、障害児学校では
「あれができる、これができる、これもできるようになった」
という見方をするということを聞いた。
なるほど、そういう見方をすると、生徒の発達や変化が手にとるようにわかってくる。
「A君がこんなに変ったんだからB君もきっと」
「C君が漢字を読めるようになったんだから、次はすばらしい文を書いてくれるに違いない。それは長い時間がかかるかも知れない。しかし、きっと」
という生徒に対する信頼が生まれ、展望がわいてくる。
その喜びを一度味わうと、教師は少しぐらいの困難があってもきっといつかは、という思いで、生徒たちから目を離せなくなってくる。
「やめられない、とまらない」である。
たとえ遅々とした歩みでも、そして時に後退しながらでも、とにかく前に向って進みたい。
私は、泥沼?に足をひきこまれたように、この山城高校定時制から脱け出せなくなりそうだ。 (了)
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
こうした経験を経て、彼らはクラスのりーダーとして着実に一歩を踏みだしたといえる。
そして、文化祭も自分たちの手で成功させようと、K君が自ら実行委員に立候補するまでになっていた。
何だったのだろう
この一年間のめざましい成長を保障したもの
一学期当初には、無断で何日も欠席したK君が、交通事故に遭って、たった一日欠席しなければならなくなった時、
「文化祭の準備が気になるんやけど」
と、やきもきしながら電話をしてきた事が、私には忘れられない。
二年に進級して、さらに生徒会活動に意欲を燃やしている彼の姿を見る今、一年前を思い出しながら、この一年間のめざましい成長を保障したものは、一体何だったのだろうと改めて考えさせられる。
あらためて教わった
生徒たち自身の集団の力 K君自身の力の大きさ
教師集団の一致したとりくみの中で学年全体を変え、K君をその中の一人として大きく変えていったことは明白である。
また生徒たち自身の集団の力、K君自身の力の大きさも改めて教わった気がする。
しかし、あれほど鮮やかな変化の直接のきっかけは何だったのか、とつきつめてみると、首をかしげてしまう。
一種の謎である。
私自身の分析も不充分であり、今後解明していかねばならない私にとっての課題であり謎である。
「お父さんの目からご覧になっていかがですか?」
と一度父親に聞いてみた事がある。
「さあ、何でしょうな。特別何かあったわけでもないし…」
という答であった。
青年期の入口に立つK君にとっては
抵抗をつなげた信頼関係
ただK君が定時制に定着していく一つの大きなポイントになった5月中旬からの家庭と学校の出席確認については
「五日も無断欠席してると聞いて、これは何とかせなあかん思て…」
との述懐であった。
毎日、父親と教師の間を出席確認のノートをもっと往復することは、青年期の入口に立つK君にとっては、抵抗もあったに違いない。
しかし彼が、それを父親の励ましとして受けとめ、「がんばろう」という前向きの姿勢につなげていった背景には、父と息子の間の信頼関係があったことを無視できない、と思う。
それだからこそ
「何とかせなあかん」
という父母の気持ちが、K君を励まし、それまで彼の中に眠っていたやる気をひきだすことができ、K君自身も毎の出席を確認することで、自分もこれだけできたんだ、という自信をつけていったのではないだろうか。
教師としての本来の仕事
眠らされているひとりひとりの生徒の可能性を
少しずつでもひきだす
定時制高校の現場は、様々な困難点や矛盾を抱えながら日々を送っている。
その中にあって私のような条件の者が、なぜ山城高校定時制を去る気になれないのか。
それは少しキザにいえば、すべての生徒にK君の遂げたような成長を期待するからである。
K君の成長を目の当りにした私は、そのことにいよいよ確信を深めた。
さまぎまな条件の下に眠らされているひとりひとりの生徒の可能性を少しずつでもひきだすーこの事業こそが、教師としての本来の仕事ではないか。
こんな偉そうな事をいっても、勿論私ひとりでできる仕事ではない。
私が山城高校定時制を去る気にならないもう一つの理由がここにある。
「教職員の一致したとりくみ」という一言で片づけてしまったが、このことについてもう少し触れておきたい。
正直いって
逃げだしたくなることもある
K君たちへの対応の中で述べた私では説得しきれないことが、副担任の先生から話されて、納得するという場合のように、教師間の条件や力量の差はどんな場合でも歴然としてある。
副担任の先生の話を横で聞きながら、私は
「そうだ、そうだ」
と思わずうなずいてしまうその説得力に驚くと同時に、
「ああ、こういう風に筋道を立てて話せるようにならなくちや」
と改めて自分の未熟さを感じたものだった。
そんな力量の違いをもった教師たちが集団として一致して指導するとはどういうことなのだろうか。
例えば、「暴力や授業妨害は絶対に許さず、き然とした指導をする」という点で当然教師集団は一致する。
しかし、その指導の方法を一致させることは困難だ。
自分よりからだの大きい男子生徒が数人立ちはだかる時、正直いって逃げだしたくなることもある。
実際、「やめなさい」と、私などが眉をつりあげても、聞き入れないことだってある。
それでもやってはいけないことはいけないと注意をしよう。
その場で指導しきれるか否かは別としてとにかく一言注意をする。
あるいは他の教職員に連絡しようというのが我々のいう一致した指導である。
担任まかせの指導ではなく
力量や条件に応じて、すべての教職員が力が合わせて
こういった指導の際、その生徒の実態をどれほどつかんでいるかということが一つの条件となる場合もある。
その場で指導しきることだけが、指導のすべてではないし、その生徒の状況をよくつかみ、一定の指導をしてきている担任の視点から改めて指導することが必要な場合もある。
これは担任まかせの指導という意味ではなく、その力量や条件に応じて、すべての教職員が力が合わせて指導していくことのひとつの表われである。
( つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
昨年、私が担任した一年生のクラスにK君がいた。
彼は前年度欠席が多くて、原級留置になった生徒である。
そのK君と初めて会った時、正直いって、私は今年もまた去年の二の舞になるのじゃないかなという感じをもった。
「別に…」 「なんとなく…」
それは、今までみてきた原留生徒の中で、二年めからは順調にトントンといった例が比較的少ないこと、おまけに前年度のことについて、どんな事情だったの?と聞いても
「別に…」
とか
「なんとなく…」
という受けこたえしかしないK君のシラけた態度からの予想だった。
案の定、一学期が始まってみると、欠席が目立った。
五月の連休明けには、ますますひどくなり、欠席が5日ほども続いた。
しびれをきらせて5日めに家庭に電話すると
「えっ、5日間?毎日学校が終る頃帰って来るので、てっきり行ってるもんやと思ってました」
と母親。
それから数日後、K君が父親からの伝言をもってきた。
「山城高校定時制史上初の一年優勝」という目標を生徒に提示
毎日の出席を確認したいので、とはんこを押す欄が作ってある。
その日から毎日、担任か副担任が彼の出席を確かめて印かんを押し、家庭で印かんを押してもらってくるという事が始まった。
このことをきっかけにして、彼はとにかく
「一応の目的」
をもって、毎日登校するようにはなった。
しかし、教科によっては、授業に全くとりくもうとしないという状況も教科の先生から出された。
毎日学校へ来ても話すのは同じ職場で働くクラスメートとだけで、それもほんの二言、三言だった。
そんな彼が、担任の発行するクラス新聞に初めて登場するのは、一学期の期末テストが終った後のクラス対抗球技大会の記事である。
今もはっきりと記憶しているが、あの時の彼の表情や声に私は少なからぬ驚きを覚えた。
教室では無口で笑顔など見せたことのない彼が、大きな声を出して、クラスのメンバーをリードしていた。
そして彼が、決定的な変化を遂げたのは、二学期の体育祭のとりくみを通してである。
我々一年の担任、副担任団は「山城高校定時制史上初の一年優勝」という目標を生徒に提示し、このスローガンのもとに共同通信を発行するなどして、準備の段階から指導に、クラスの枠をはずして学年集団としてとりくんだ。
その結果
「体育祭なんかやる気ないわ」
と言っていた生徒たちもしだいに応援練習やリレーの練習、ゼッケン作りに参加し、目標の一年優勝をなしとげたのだった。
クラス委員でもなかった彼が、そのころようやく得た二、三の友人と共に、自ら実行委員の中に加わってきた。
一年初優勝をめぎす学年全体のとりくみが熱気を増す中で、彼は応援団や練習やデコレーション作りに生きいきと動き回った。
そして、優勝の喜びを味わうことができたのだったが、学年の中心になってがんばった彼らと、それ以外の無関心派の生徒の間には一つの溝ができていた。
「僕らはこんなにがんばったのに。先生、なんであいつらをおこらへんにゃ」
と彼らは私につめよってきた。
「あの子らをおこって、それで解決になるの?」
と私は私なりに、問題を投げかけるつもりであったが、彼らはいっこうに聞き入れようとしない。
副担任の先生から
「君たちが一年優勝をめぎしてがんばったことはりっぱだ。君たちの努力が一年優勝の原動力になったんだ。
その力を更にすばらしい力にと、みんなで決めたことを守ろうとしないクラスの仲間に腹をたてる君たちの正義感と責任感は本当にすばらしい。
僕たちも君たちの、約束を守らないと怒るそのエネルギーにはほれぼれするよ。
しかし、それに従わなかった生徒を叱ったり、腹を立てたりすることからは何も生まれないのと違うか。
人間はみなそれぞれ違う。
最初からみんながみんな同じことがやれるわけではない。
体育祭に出場しなかった子を責めるより、どうしたら次からはぼくも出よう、私も出よう、という気になるか、全力を出しきれるか、を考える方が先やないか。」
と話を聞くうち、横できいていたK君は、
「僕、先生のいうとおりやと思う」
とポツリと言った。
興奮していた生徒もそれでニッコリうなずいた。
( つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
山城高校定時制ではじまった「手作り教材のプリント」が、各教科、国語、社会、理科、数学、外国語、保健、選択教科などにひろがるにつれ多くのことが分かってきた。
また、多くの改善や要求も必要であった。
新採で、山城高校定時制に来たある先生は次のような事を書いている。
私が山定に来て、もうまる五年が過ぎた。
大学を卒業した春。
私こそが「デモ・シカ教師」だと半ば自嘲しながら教壇に立ち始めた。
劣等感をずしりと両肩に背負った彼らは、学習に対する意欲を
私には、五年もの歳月の流れが不思議に思えてくる。
特に母親となってからこの1年10ヵ月ほどは、生徒と我が子のはざまで、あれもしなきゃ、これもしなきゃと気持ちばかりが先行して教育実践が伴わないジレンマと、これで私は本当に母親といえるのだろうかとう自問の中で過ごしてきたような気がする。
定時制高校の生徒の現状については、色々なところで述べられているとおり、差別選別の教育のあらゆる矛盾が重り合い、より鋭く表われてきているのである。
学力・偏差値で輪切りにされ、低学力、のレッテルをはられた生徒たちが、全日制の受験に失敗したから、他に行く所がなかったからと、定時制の門をたたいてくる。
どうせ定時制しか入れへんかったんやという劣等感をずしりと両肩に背負った彼らは、学習に対する意欲を大方失いかけているように見える。
もっと打つ手はないのか
教師としてやれることはないのか、と悩みつつ
まず、授業に参加させること、学習にとりくませることが課題となる。
そのためには、わかる授業をしなければ、さらにその前提として、仕事が終れば自然に足が向くようなたのしい学校を作ることが必要だ、として、
「たのしい学校・わかる授業」
をスローガンに掲げる職場全体のとりくみに私もこの5年間加わってきた。
しかし、それでもなお、学年が進むにつれて、少しずつ生徒は減っていく。
教科書、えんぴつ一本さえ持たずに教室に入ってくる生徒、講義をしても私語にかき消され、教室の隅々までは届かない。教室全体を見回してみると、こちらを向いている目は、ほんの数人。
そのうち、欠席がぽつり、ぽつり……もっと打つ手はないのか、教師としてやれることはないのか、と悩みつつも、夜、一軒の家庭を訪問するのさえ、学校を出るのが10時頃という生活では二の足を踏まぎるを得ない私なのである。
それでもなぜか、私は山城高校定時制を去ることを、本気で考えようとしない。
子供は、産休明けから年度末までは、近所の知り合いの方に無理をお願いしてみてもらった。
昨年度一年間は、その春、山城高校定時制を卒業したばかりの生徒に私が出勤する時間だけ家へ来てみてもらい、朝から昼にかけては、私が子供の相手をしながら家事をやり、寝た時をみはからつて、息をひそめながら、授業の教材を作るという生活だった。
夜間保育所設置を要求する運動が始まった
そして、今年度は、勤務の実態などを話す中でようやく保育所に入所できた。
しかし、保育所の迎えから私か夫が帰宅するまでは知人にみてもらうという、夜間保育が保障されていない現状では、二重保育を余儀なくされている状態である。
民間企業に勤める夫は、別にモーレツ社員というわけでもないのに、帰宅が私より遅いこともしばしばである。
一方、私が産休を終えて職場に復帰して間もなく、分会では乳児をかかえた私のことがとりあげられ、夜間保育所設置を要求する運動が始まった。
府教委は交渉の中で、校長が許可すれば校内に保育室を設置してもよいという回答を示した。
しかし、ホッと安堵の胸を撫でおろしたのも束の間、なぜかこれを一方的に撤回して、要求の趣旨は理解できるといいながら、子供の保育は基本的に父母の責任で行なうものだ、と子供を抱えてしんどいのならやめてもらってけっこうですよ、といわんばかりの回答を続けている。
子供を抱えて働く婦人教職員にとって
決して働きやすい職場ではないが
こうした経過や夜間に及ぶ勤務、また、生徒の状況などから考えても、夜間定時制は、子供を抱えて働く婦人教職員にとって、決して働きやすい職場ではない。しかし、なぜか私は、山城高校定時制を去る気になれない。
( つづく )