教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
こうした経験を経て、彼らはクラスのりーダーとして着実に一歩を踏みだしたといえる。
そして、文化祭も自分たちの手で成功させようと、K君が自ら実行委員に立候補するまでになっていた。
何だったのだろう
この一年間のめざましい成長を保障したもの
一学期当初には、無断で何日も欠席したK君が、交通事故に遭って、たった一日欠席しなければならなくなった時、
「文化祭の準備が気になるんやけど」
と、やきもきしながら電話をしてきた事が、私には忘れられない。
二年に進級して、さらに生徒会活動に意欲を燃やしている彼の姿を見る今、一年前を思い出しながら、この一年間のめざましい成長を保障したものは、一体何だったのだろうと改めて考えさせられる。
あらためて教わった
生徒たち自身の集団の力 K君自身の力の大きさ
教師集団の一致したとりくみの中で学年全体を変え、K君をその中の一人として大きく変えていったことは明白である。
また生徒たち自身の集団の力、K君自身の力の大きさも改めて教わった気がする。
しかし、あれほど鮮やかな変化の直接のきっかけは何だったのか、とつきつめてみると、首をかしげてしまう。
一種の謎である。
私自身の分析も不充分であり、今後解明していかねばならない私にとっての課題であり謎である。
「お父さんの目からご覧になっていかがですか?」
と一度父親に聞いてみた事がある。
「さあ、何でしょうな。特別何かあったわけでもないし…」
という答であった。
青年期の入口に立つK君にとっては
抵抗をつなげた信頼関係
ただK君が定時制に定着していく一つの大きなポイントになった5月中旬からの家庭と学校の出席確認については
「五日も無断欠席してると聞いて、これは何とかせなあかん思て…」
との述懐であった。
毎日、父親と教師の間を出席確認のノートをもっと往復することは、青年期の入口に立つK君にとっては、抵抗もあったに違いない。
しかし彼が、それを父親の励ましとして受けとめ、「がんばろう」という前向きの姿勢につなげていった背景には、父と息子の間の信頼関係があったことを無視できない、と思う。
それだからこそ
「何とかせなあかん」
という父母の気持ちが、K君を励まし、それまで彼の中に眠っていたやる気をひきだすことができ、K君自身も毎の出席を確認することで、自分もこれだけできたんだ、という自信をつけていったのではないだろうか。
教師としての本来の仕事
眠らされているひとりひとりの生徒の可能性を
少しずつでもひきだす
定時制高校の現場は、様々な困難点や矛盾を抱えながら日々を送っている。
その中にあって私のような条件の者が、なぜ山城高校定時制を去る気になれないのか。
それは少しキザにいえば、すべての生徒にK君の遂げたような成長を期待するからである。
K君の成長を目の当りにした私は、そのことにいよいよ確信を深めた。
さまぎまな条件の下に眠らされているひとりひとりの生徒の可能性を少しずつでもひきだすーこの事業こそが、教師としての本来の仕事ではないか。
こんな偉そうな事をいっても、勿論私ひとりでできる仕事ではない。
私が山城高校定時制を去る気にならないもう一つの理由がここにある。
「教職員の一致したとりくみ」という一言で片づけてしまったが、このことについてもう少し触れておきたい。
正直いって
逃げだしたくなることもある
K君たちへの対応の中で述べた私では説得しきれないことが、副担任の先生から話されて、納得するという場合のように、教師間の条件や力量の差はどんな場合でも歴然としてある。
副担任の先生の話を横で聞きながら、私は
「そうだ、そうだ」
と思わずうなずいてしまうその説得力に驚くと同時に、
「ああ、こういう風に筋道を立てて話せるようにならなくちや」
と改めて自分の未熟さを感じたものだった。
そんな力量の違いをもった教師たちが集団として一致して指導するとはどういうことなのだろうか。
例えば、「暴力や授業妨害は絶対に許さず、き然とした指導をする」という点で当然教師集団は一致する。
しかし、その指導の方法を一致させることは困難だ。
自分よりからだの大きい男子生徒が数人立ちはだかる時、正直いって逃げだしたくなることもある。
実際、「やめなさい」と、私などが眉をつりあげても、聞き入れないことだってある。
それでもやってはいけないことはいけないと注意をしよう。
その場で指導しきれるか否かは別としてとにかく一言注意をする。
あるいは他の教職員に連絡しようというのが我々のいう一致した指導である。
担任まかせの指導ではなく
力量や条件に応じて、すべての教職員が力が合わせて
こういった指導の際、その生徒の実態をどれほどつかんでいるかということが一つの条件となる場合もある。
その場で指導しきることだけが、指導のすべてではないし、その生徒の状況をよくつかみ、一定の指導をしてきている担任の視点から改めて指導することが必要な場合もある。
これは担任まかせの指導という意味ではなく、その力量や条件に応じて、すべての教職員が力が合わせて指導していくことのひとつの表われである。
( つづく )
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