教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
古い革で覆われた教育を新しい教育展望に変革されるときは、いつも多くの困難と課題にぶちあたり、それを解決して行かなければならなかった。
血と涙と汗を流しながら 数え切れない人々の参加が
1950年代から1960年代にかけての京都の障害児教育は、それらの問題を集中的に取り組んだ点で学ぶべきことはあまりにも多すぎる。
このことを学ばないで、最近かって京都の障害児教育を評価してきた人々の中にそれと逆流することを平然と述べられていることには驚きを通り越して唖然とすることがあまりにも多い。
教育対象外とされた子どもたちの教育の可能性を訴え、それを実現してきたこと。
すべての子どもの発達の可能性を実践的に立証してきたことの背景には、すでに述べてきた岩に自らの身体をぶち当て血と涙と汗を流しながらも数え切れない人々の参加によってその岩を揺り動かした人々のことは、軽々に否定・無視してはならないと思う。
人間の知能は
知能検査だけで測定できると考えるほど単純だろうか
そのひとつ「教育対象外」とされた根拠に知能検査・IQ問題がある。
最近、「発達障害の子ども」をめぐってさかんに特定のIQ検査法の講習会が開かれで、この子はノーマルで知的に問題がないが……とか、IQの数値はこうだから……と子どもたちのIQを具体的に公表し「発達障害の子ども」の課題を論じている人々が多くなった。
このことは、1950年代から1960年代にかけての京都の障害児教育でさかんに論じられ、それを克服する取り組みがすすめられてきたことへの「否定的教育」でもあると言えるのではないだろうか。
知能検査だけで測定できるほど
人間の知能は単純ではない
人間の知能を知能検査だけで測定できると考えられるほど、人間の知能は「単純」なのだろうか。
それに対する答えは、「NO」である。
1973年1月。矢川徳光氏は「教育とはなにか」の中で京都の与謝の海養護学校の実践から書き起こし、この知能検査に附いて全面的な批判を書いている。
その一部を紹介したい。
人種主義に基ずくテストは……
日本の子どもたち、教師たち、父母たちをなやませているテストは、その由来をたずねると、人種主義ということへゆきつくからです。
そのはっきりした証拠は、アメリカの心理学者ソーンダイクにみられます。
かれは、1904年に『精神的社会的測定理論入門』という本を書いて、知能検査のためのテスト理論の体系をはじめてまとめました。
また、1943には『人間とその事業』という本をだしましたが、これらの本でみられるソーンダイクの思想はたいへん明瞭な人種差別主義でした。
かれによりますと、人間には「精神のゲン」(精神の遺伝子)が遺伝の法則にしたがってそなわっており、その作用によって、人間は「生得的能力」をもって生まれてくる、というのです。
ところで、その「生得的能力」を、白色人種の方が有色人種のばあいよりも、より豊かにそなえていると、ソーンダイクは主張しました。
ソーンダイクが人間には「精神のゲン」があるというばあい、かれは精神も遺伝されるとみるあやまった見解をもっていたことを意味しているのです。
すでに指摘されていた 知能テストの根本的な誤り
ソーンダイクのあとをうけて、知能指数(IQ)の理論の発展やテストの作製に活躍した学者としてアメリカの心理学者ターマンがいますが、ターマンのテスト法(じつはピネ=ターマン法というのですが)は1920年代後半から1930年代前半にわたって、ソ連の学校教育に禍いしました。
それを批判した学者たちは、知能テストの根本的な誤りは、子どもの思考を「刺激-反応」という図式でしかとらえてやらず、子どもの個性または人格をみてやらないことにあると、指摘しました。
ある学者は、知能テストをやる者は「子どもをあやつり人形(マリオネツト)」としかみていない、といいました。
子どもたちは あやつり人形ではない
IQをさぐりだす知能テストはイギリスの教育界にもながいあいだ禍いしてきました。
イギリスでは「イレヴン・プラス」検査といって、子どもが11歳になるとIQの数値のいかんによって、子どもたちはその後の進路や進学コースをきめられてきたのでした。
今日は、それの非教育性が明ちかにされ、新しい型の総合制学校(コンプリヘンシヴ・スクール)をつくる運動がすめられています。
その運動の先頭にたっている学者たちの一人にブライアン・サイモンという教育学者(レスター大学教授)がいます。
そのサイモンは、人種差別(とくに黒人差別)の思想にこりかたまっているアーサー・ジェンセンというアメリカのカリフォルニァ大学心理学教授が知能検査の有効性をイギリスで宣伝したとき、その非科学性を暴露し、同じ見解をもつ人たちとともに、ジェンセンを批判しました。
それは1970年のことなのです。
よそごとであるとうけとってはならない IQ(知能指数)の有効さ
ジェンセンの考え方は、知能水準や能力は遣伝法則によって決定されている、というものです。
黒人の知能と生活も、労働者階級の知能と生活も、遺伝がおそまつだから、貧しいのだと、ジェンセンは主張しています。
かれは、知能水準の低いものたちの学校教育は丸暗記式の学習をさせておけばよい、かれらは「思考する」能力をもっていないからである、と考えているのです。
こういうことは、むかしのソ連のこと、いまのアメリカのこと、イギリスのこと、などといったぐあいに、よそごとであるとうけとってはならないものです。
ジェンセンのばあいから判断できるわけですが、IQ(知能指数)の有効さを主張する思想の根っこは人種差別や階級差別と切りはなせなく結びついています。
そういう思想の源泉が遺伝決定論にあることは、すでに指摘しました。
差別・選別の能力主義
この思想は日本の教育における「能力主義」の奥底にもひそんでいるものです。
「能力主義」は差別主義の思想であります。
そのもっとも露骨なあらわれは、同年齢層の青少年のなかには、知能が優秀で科学的な思考力に富んだものは3パーセントか5パーセントしかいないとしているエリート選抜思想にみられます。
それは、テスト主義と切りはなせません。
中教審が、いまの六・三・三制とは別に、「幼児学校」を新設してエリート訓練の苗床にしようとしているのも、同じ考え方からでているもので、差別・選別主義のあらわれです。
そこで、この問題の検討は教育の事実とてらしあわせて、もすこし深めてみる必要があります。
知能偏差値が高いほど 知能はすぐれているのか
知能指数は上昇する。
IQ(知能指数)については、それがなにかしら生まれつきのものであって、変化しないものであるかのように考えている人たちが、まだかなり多いようにみうけられます。
とくにわが子の教育に熱心ないわゆる「教育ママ」たちのあいだでは、これはそうとう大きな頭痛のたねのようです。
いやそういうお母さんたちだけでなく、教師たちのなかにも、IQは子どもの能力とかねうちとかを計る尺度の一つのように考えている人がかなりいそうです。
それどころか、「知能検査」を売り物にしている学者のなかにも、まだそういう人たちがいるようです。
そのうちの一人とおぼしき学者が、まえにあげたターマンをかつぎながら、こう書いています。
「知能指数70以下で、50~70のものを痴愚、25~50のものを魯鈍、20または25以下のものを白痴として区別することがある。」
この「区別する」ということばは、差別すると表現した方がより適切だったろうに、と思わくらいれます。
これは「バカ」の位づけなのでしょうが、これを書いた学者は、つづいて知能偏差値についての説明をしています。
知能偏差値というのは、知能検査であらわれるある個人の得点と、その年齢層(満の月)の人びとの平均得点との差を一定のやり方で操作してだされる数値のことです。
知能偏差値が高いほど、知能はすぐれているとされるものです。
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