教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
ろうあ協会は
ろう学校生徒の真の要求が理解出来ていなかったが
京都府ろうあ協会編の「授業拒否 ー3.3声明に関する資料」には、「授業拒否」について事件前後の高等部生徒の日記が掲載されている。
だが、この日記の小見出しが「写生会拒否事件」と書かれているように「資料」が出された段階でもろうあ協会としての本質と全容が把握されていないことがうかがえる。
この資料から現在判明していることと本質に迫る問題点を提起しておきたい。
一生懸命読む先生たちの姿に感動した生徒会長
生徒会長の日記にこのような記述がある。
「朝七時から登校してガリ版の印刷をし、印刷のにおいも真新しいプリントを八時頃から次々と登校される先生方に直接手渡し、一読下さるようお願いする。
私達と今まで何の関係も先生方が、一生懸命読んで下さる姿を見た時、今までの疲れも一ぺんにふきとぶほどよい気持ちだった。
私達は写生会を確かに放棄した。しかし、それは学校を休んだのと意味が違う。」
たしかに生徒会のプリントは、ろう学校の教職員に衝撃を与えた。
よくぞここまで生徒たちがまとまって意見をだし、表現した。
しかも要求していることは正当で教育の根本のあり方を提起している。
今まで以上にもっと真剣に誠意を持って教育実践をすすめなければならない、と昨日のことのように覚えているとある高齢な元ろう学校の先生が証言している。
だが、その先生の意見は圧倒的に少数だった。
教職員の対立と本音の激論
生徒が教師をビラでひはんするとはなのごとだ。
馬鹿な生徒を教える苦労を彼らは解っていない。
でたらめなことばかりいっているではないか。
生徒の主張を聞いているとますます彼らを甘やかすことになる。
教職員の意見はろう学校内で渦巻いた。
ろう学校の教職員は、京都府立高等学校教職員組合ろう学校分会(ろう分会)に入っていた。
そのため、ろう分会では、高等部の生徒のビラや主張行動をめぐってケンケンがくがくの論議が繰り返された。
生徒の立場に立つのか、教職員の立場に立つのか、
と分会長を攻め抜く
すでに、述べたようにろう学校中学部の教師は、高等部生徒のビラに一部課題はあるものの全面的に受けとめながら考えるべきことだという意見を出した。
これに対して
「組合というものは、教職員の立場に立つべきだろう。なのに、そうではないではないか。」
「ろう学校の施設設備・教職員定数の改善など毎回京都府議会に請願を出し続けている。教職員の権利や労働条件を守り発展させることと生徒のよりよき教育を受けたい、というねがいは対立するものではない。」
「そんなことを言って生徒の立場に立ちすぎだ。教職員の立場はどうなのだ。」
「先生を首にせよと生徒は言っているのに分会は黙っているのか。」
「それは、生徒会自身がゆきすぎたあやまりだったと訂正している。」
「そんなことを言わすこと自体が生徒を甘やかしているのだ。」
「社会に出て、そんなことが通じないことを教えてやるべきではないか。」
等々の意見の末に、
「分会は、生徒の立場に立つのか、教職員の立場に立つのか、どちらかだ。どっちなんだ。」
ということだけになり当時分会長(中学部)だったM先生に二者択一だけを迫る意見だけが集中した。
涙を流しながら発言した分会長 へ分裂と攻撃の嵐
「あれは、忘れもしない夜の11時頃だった。
M先生は、涙を流しながら
『分会は、教職員を守るのと同時に生徒を守る分会。そういう分会になってほしいし、そういう分会にならないと……』
とあとは涙声だけで充分聞き取れないほどだった。
従来あったろう学校の『悪しき伝統』を無くしていこうという心からの叫びであったように思える。」
結果的に数名の教職員が脱退。
それ以降、内容如何に関わらずことごとく分会を批判し、組合員の脱退を工作して、ろう分会は、分裂状況に直面する。
しかし、もっといい教育やいい学校環境をつくるための取り組みは、休むことがなかった。
学習会を繰り返す先頭に立ったろう学校教員
ろう分会では、他の障害者団体やさまざまな学習会に参加していたが、もっと広く子どもたちの発達と教育、障害児者やその家族・関係者がともに学習しなければ、ろう教育も京都の障害児教育の発展もない、という考えに至っていた。
そして、京都大学医学部病院前にあった修学旅行生用の旅館の一室を借り、少人数から初めて学習会を繰り返していた。
そして、全国にもそのことを発信していたが、全国障害者問題研究会が結成されることに連帯して、全国組織が出来る前に京都支部を結成した。
「夜明け前」の機関誌に籠められた涙
その支部長にろう学校のM先生がなった。
そのときの涙は、分会会議で流した涙ではなかった。
京都の障害児者の取り組みを発表する機関誌が出され、「障害種別」を超えた取り組みが多くの人々が知ることになった。
その機関誌の名前は、「夜明け」と名付けられた。
( つづく )
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