ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
先生たちは 私達から逃げているのでは
先生達さえ、口話法から ー いや私達ろうあ者から逃げていらっしゃるのではありませんか。
これはろうあ者への重大な差別以外の何ものでもありません。
私遠は、口話法で話しをしたい。
どうしても出来ないという苦しみ
しかしどうしても出来ないという苦しみを常にもっています。
校長先生は、このような私達の不安や苦しみを、ただの一度でもお考え下さったことがあるでしょうか。
先生方がどんな理由でこの学校へ来られたかは知りませんが。
文部省の方針だから、校長先生が言われたからというだけで、私達とは問答無用だといったお考えの人がおられますし私達へ差別的な無理解な発言を平気でなさる先生もあります。
手話が出来る出来ないで
先生を いい 悪い とは言ってない
私達は先生を
「あの先生は手話ができるからよい先生だ」
とか
「あの先生は手話が出来ないからわるい先生だ」とか
ー そんなことをいっているのではありません。
ろう教育に対する、又私達に対する誠実さと、理解及認識の深浅を問題にしているのです。
このことに関し校長先生を含めた先生方の反省を求め、手話及び口話に関する
明確な回答を望みます。
後輩に このような苦しみを味わわせたくない
補記、私達と先生方との話し合いは通訳の先生がないと出来ません。
私達はこのような現状を悲しみます。
こういうことをなくすため、私達は立ち上ったのです。
私達の後輩には、このような苦しみを味わわせたくないのです。
これは生徒会会員全部の一致した意見です。
昭和40年11月19日
京都府立聾学校高等部生徒会
京都府ろうあ協会編集人のコメント
以上が写生会拒否事件をめぐって生徒会が全校の教師及び登校してくる父兄を対象に配布したビラの全文であり、われわれはこの内容が、もっとも正しく事件の真相に触れていると確信している。
しかし、もう少し事件の背暴を明らかにしておく必要があると思うので、当時の生徒会役員で、現本協会会員である2、3の人物に登場してもらうことにする。
いずれも事件前後の日記を提出してもらった。
※ 現在、少なくない手話を学ぶ人々は、この「授業拒否」問題を「手話と口話」の問題として、生徒たちが手話を要求して「授業拒否」したかのように書いている。
その典型として、以降の掲載する京都府ろうあ協会が声明を出した「3・3声明」を引用している。
だが、「授業拒否」問題を「手話と口話」の問題だけに問題を単純化して考えるのはあやまっている、と思える。
生徒たちのビラに書いた、
私達は先生を「あの先生は手話ができるからよい先生だ」とか「あの先生は手話が出来ないからわるい先生だ」とか ー そんなことをいっているのではありません。ろう教育に対する、又私達に対する誠実さと、理解及認識の深浅を問題にしているのです。
と言うことを深く理解していかなければならないのではないか、と思う。
最近、手話を覚えたりろう学校の教師になろうとしたり、なった教師の中で、
「あの先生は手話ができるからよい先生だ」
「あの先生は手話が出来ないからわるい先生だ」
と言っている事を非常によく聞くようになった。
だが、あえて書くと「手話が通じていないかどうかは、関係なく手話をする事でろう教育をしているのだ」と錯覚しているのではないか、とも思える。
手話が「出来る」= ろう学校の生徒への「理解及認識」が出来ていると思い込んではいないだろうか。
「授業拒否」問題で生徒たちが提起したことを単純化している。
教育とは、そんなに単純な方法や簡単に出来る問題ではない。
さらに、生徒たちやろうあ協会が、事件を「教育の基本問題」と言い、「ろう教育の基本問題」と言わなかった深層が理解されていないように思える。
単純化すれば、読まれるだろうが、あえて、多様な生徒たちの要求と基本に迫っていきたい。
( つづく )
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