教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
先生どうやった 何言われたん 大丈夫か
校長と話が終わって、聴覚障害指導室に戻るとなぜ知ったのか解らないが、生徒たちが全員集まって、
「先生どうやった」「何言われたん」「大丈夫か」
などと聞いてきた。
そこで、校長と話し合った結論だけを生徒たちに伝えた。
手話弁論大会で、生徒の弁論が終わって休憩をとる。
その時、生徒の弁論のすべてを前もって印刷しておいて、休憩の時に配る。
そのあと、参加者の人から意見を聞くというのはどうだろうか、という提案だった。
ちょっとしたしぐさで
「意味合いが違うこと」をもっと具体的に
「先生の話を聞いていたら手話には、いろいろな表現や少しした手指の動きで意味合いが違うし、ろうあ者の人もいろいろな手話表現をするって聞いた。その表現を出来るだけ取り入れたい。」
「僕は、なにぬねのがうまく発言できなくて、いじめられてきた。聞こえる人にもなにぬねのなどの言葉が、例え十分でなくても聞き取れるように練習するわ。」
などの意見が次々飛び出した。特に、ちょっとしたしぐさで「意味合いが違うこと」をもっと具体的に教えて欲しい、と言う意見がぞくぞく飛び出した。
僕と交際してください と言った時の答え
そこで、一番恥ずかしがり屋のK君に「僕と交際してください」と女の子に言ってそれに対するさまざまな答え方を連取することになった。
K君は、頭をかいて「こんなことよういわんわ」「恥ずかしい」と言っていたが、ボソボソっと「僕と交際してください」と手話で話しかけてきた。
「え、なに?K君なにを言っているの」
「あのー、あのー、僕はあなたのことが好きです、つきあってもらえませんか。」
K君がそこまで言い出したのでみんなびっくり。
「いいわよ」(京都では、小指をあごの下にあてる。)
「いいわよ~」(身体を少しひねって小指を少し斜めにしてあごにあて笑顔)
「いいわ」(無表情)
「考えるわ」(にこやかに)
(無表情)
(いやそうな顔)
「つき合っている人がいるの。ごめんね」
などなど、を表現してみると恥ずかしがり屋のK君は、最後の「つき合っている人がいるの。ごめんね」のところでは、ひっくり返るしぐさをしたのでみんな大爆笑。
逆に子どもから何度も聞かれることはなかった
それから、弁論大会に向けてさらに必死の練習がはじまり、これがいいかな、この表情がいいかな、ボードを置いて字を書いて説明しようかなあ、などの意見が、さまざま飛び出し生徒同士の相談はますますエスカレートしていった。
この間、あるお母さんから連絡があった。
「山城高校に入学して、手話を学ぶと聞いたときはびっくりしました。他の普通高校に通っている聴覚障害のお母さんから、手話をするならろう学校と同じではないの、と嫌みを言われて悩んでいたんですけれど。
子どもが帰ってきて、原稿を読んで、お母さんこの言葉で聞き取れるか正直に言って欲しい、と何度も言うのにはびっくりしました。
お父さんにも、兄弟にも何度も何度も聞くんです。そして、こう言うの、と言うと必死にくり返して連取していました。
いままで、これはこのように言いなさい、そんな発音はだめです、と子どもに何度も行ったことはあっても、逆に子どもから何度も聞かれることはなかったので驚きました。
手話をすると発声しなくなるって言われていたけれど、それは子どもが言いたいこと、伝えたいことを受けとめてないからそう信じてしまっていたのですね。
今度の手話弁論大会には、家族中みんなで行きます。」
反対のための反対を乗り越えて
聴覚障害生徒を受け入れるのを未だ快く思っていない一部の先生が、少し話したことでも、多く話したことでも、すて理解されるという考え方を強く言い出し、何とか問題を出そうとする動きであったことは校長との話で承知していたが、生徒たちにそのことを言わなかった。
でも、生徒たちは、うすうす知っていたようであった。
人の話というのは、後で考えてみると様々に理解されてる場合がある。
みんなが同じように理解していると思っていると、バラバラに理解していることが多い。
また、聞いた話をもう一度みんなで文章に書いてみると、自分の範囲の中でしか聞いて、理解していなかったことが解る。
話し言葉というのは、そのような側面も持っているのである。
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