教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
偏見を逆に参加した人に与える
オーバーヘッドプロジェクターを付けると言いだした教師の言い分は、
「手話も知らない聞こえる人が参加して聴覚障害生徒の言葉が充分聞きとれなかったら、誤解される心配がある。偏見を逆に参加した人に与えるのではないか。」
という考えだった。
さらに同様な理由から
「手話で話す聴覚障害の人が来たら、生徒の手話がわからないため、偏見や誤解を与える。」そのため手話通訳をつけるべきである」
という話まで出てきた。
一度聞いたからすてわかるわけでは無い
人は間違ったり誤解したりする
だからコミュニケーションが必要
参加する生徒に、オーバーヘッドプロジェクターと手話通訳のことを提起したら、ぞくぞくと意見が飛び出した。
「参加者する人たちに誤解がないように、間違って理解しないように、正しく理解するようにしておかなければならないなどの考え方が先生にあるのやろう。」
「だから、そういうことがおこらないようにあらかじめ準備をしておく必要がある、ということが先生の意見の底にあるのではないか。」
「よくアッセンブリーで人権のこととりあげ学習がある。
自分も聴覚障害生徒として全校生徒の前で話したことがあるが、よく解った、大変だっただろうという意見ばかり。僕達だって悪いことしているのはしょっちゅうあるのにそのことへの意見や批判がない。
僕も他の人権学習会に参加して、疑問に思ったり、解らないこともあった。
その時、疑問に思うことや意見は書きにくい雰囲気で、なにかわかった、理解したことを書かなくてはいけない、ようになってしまう。」
「授業で先生たちが言ってることが、その場ですぐ理解できる訳では無い。全く理解できないのに、先生は授業をどんどんすすめていくことが多い。」
「一度聞いたから、すてわかるわけでは無い。人は、間違ったり誤解したりする。だから、コミュニケーションが必要なのではないの」
と言うが生徒たちの意見であった。
誤解や理解の不十分さがあったとしても
それはコミュニケーションによって補うことができる
「手話弁論大会では弁論の後に、参加者からの感想や意見を求める時間がつくってある。
自分たちの弁論が不十分であると思うけれど。それは参加したひとから指摘していただいて受け止めていくべきではないだろうか。
言ったことが、全て理解できる。そういう事は本当にあるのだろうか。自分たちをいつもそういうことを求められてきた。」
「誤解や理解の不十分さがあったとしても、それはコミュニケーションによって補うことができるはずだ。そのために、一方的に話をするんではなくて参加者からの意見を聞いて応答する、話合う。その中で、不十分さがあったこともわかってくると思う。」
「今まで自分だけが育ってきた中で、思い込んでいたことや、誤解していたことがたくさんある。それらの事を何年もかかって理解できてきたことがある。
人間は、いちど聞いただけですてを理解できる人は少ないのではないのではないだろうか。だから、コミュニケーションが必要なのだ。」
「人の話聞いて、どのように受け止めるかは、人は、それぞれ受けとめる場合が多い。いちど聞いた話を、全員が同じように理解すること自身がおかしいのではないだろうか。」
一生懸命話をしているのに
自分たちの手話が見られないということになって
「オーバーヘッドプロジェクタをつけると、参加者の目は字幕のほうに目がいって、弁論をしている生徒たちのほうに目がいかない。
日頃、向かい合って話すとか、目を合わせて話をするとか、言っているにもかかわらず一生懸命話をしている自分たちに目が行かないで、オーバーヘッドプロジェクタに目が行くのは納得がいかない。」
「さらに、手話通訳をつけるなら、参加した手話の分かる人達の目が、手話通訳の方ばかりに目がいく。
そうなると、せっかく自分たちが手話で一生懸命話をしているのに自分たちの手話が見られないということになってしまう。
それは、一生懸命手話で話をしている自分たちに対する無理解につながっていくのではないだろうか。」
「誤解がないように、理解が深まるように、と言いながら結局、手話弁論大会に参加している生徒たちが、理解するようなことをしていない、という考えがあるのではないの」
「いろいろ考えても、先生の言っていることは矛盾する。だからどうしても、納得できない。」
聴覚障害生徒同士の中でも
誤解や行き違いや対立があった
特に聴覚障害生徒から「目線の方向」について強い意見が出された。
「授業の中でも、先生たちに時々でもいいから、私たちの方を向いて、話をしてほしいといっているにもかかわらず、私たちが話をするときは、他の人たちに目線が行くのにするというのは矛盾する。」
「お互いの理解というのは、そう簡単に理解できるものでは無い。
聴覚障害生徒同士の中でも、誤解や行き違いや対立があった。そういう中で、話し合いすることを覚えて、努力した。その中で誤解や理解や連帯が生まれてきている。
自分たちの手話弁論大会の話は不十分かもしれないが、その不十分なことも見てほしい。そして、不十分である事を指摘してもらってお互いに学びやっていくことが1番大切なのではないだろうか。」
心配した校長は 聴覚障害教育担当の教師を呼んだ
このような生徒の意見に対して、一部の先生は、予断や偏見や差別意識が広がるから、生徒の言い分にたいしてどうしても譲ことができないと言い続けた。
手話弁論大会が最終段階にはいりかけた時、大会が開けるかどうかというところまで話は進展して行った。
心配した校長は、聴覚障害教育担当の教師を呼び、相談した。
なんとか解決策は無いだろうか。
校長としては、手話弁論大会をなんとか成功させたいと思っていたようであった。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23166372.html
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