教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
その子が置かれてきた環境、コミニケーションの獲得状況などとともにその子の特性を把握し
それをともに引き出しつつ学ぶ
文章と手話、音声言語と手話は異質のものであるとか、対立するものであるとか、日本語と違うが言語であるとかの意見が横行しているが、それは拙速ではないかと思う、と書いた。
でもそれぞれの特性もある。
そのことをどのように教えるのかと言うことは、非常に大事なことで困難なことであった。
手話通訳資格を持ったら手話を教えられるという問題ではない。
教育を一方的に教える場合は、そのことをするのは可能だろう。
だが、その子が置かれてきた環境、コミニケーションの獲得状況などとともにその子の特性を把握し、それをともに引き出しつつ学んでいく。
とくに、生徒同士の教え合い、学び合いは急速に学習する広さと次の次元への移行を促進する。
ろうあ者の手話表現は多彩でその手話の配列は
音声言語や文字とは異なった部分があるけれど
急激に教えるのではなく
そのため手話弁論大会に向けて、
① いろいろなコミニケーション手段があるが、手話のそのひとつであること。
手話だけですべてのコミニケーションが成立するものでもないし、口話も聴能もそうである。
自分の表現しやすいもの、相手とコミニケーションとれる方法を身につけること。
② 自分が学んだことや「知った」ことを「秘密にしない」でお互い交流し合いながらともに学び、ともにすすんでいくようにすること。
③ 京都のろうあ者の手話表現は多彩でその手話の配列は、音声言語や文字とは異なった部分があるけれど、それは急激に教えるのではなく徐々に教えて行くがそれをすべての生徒の到達点としないで今後社会がより多く手話を獲得していけるような基礎条件をつくること。
を目安にした。
「弁論通信」の作成とその影響
そのため、参加者全員で集まって相談することもあるが、個別指導をして手話弁論大会に参加した。
個別指導は、生徒に無理強いしなかったが、次々と申し出があり、生徒たちも次第に熱を帯びて来た。
ひとりの生徒の個別指導に1時間を費やすことはざらだった。
そこで、本人の復習のためや他の生徒の学習のために「弁論通信」を発行し、生徒ひとりひとりのいいたい内容を本人はどのように思っているのか、その場合どのように手話表現すればいいのか、と生徒と一致した範囲で記録し、全員に配布した。
後にあるお母さんから
「家に帰って、弁論通信を見て必死になってん食事を忘れるぐらい練習していました。
自分の言いたいことや要求を言えることに子どもは水を得た魚のようにすすんでいくのを見て、自分が子どもにしてきたことで複雑な気持ちになりましたが、お母さん楽しいねん、と言われて目が覚めた気持ちになりました。」
と言われた。
字幕をつけた手話弁論大会は
必要か用か否かの激論の始まり
弁論大会がちかずいてきた頃、教師の中で生徒が発表する中味がろうあ者や手話の知らない人にわからないから、前もってオーバーヘッドを準備して、生徒の話に追うして文字を台の裏のスクリーンに写すべきだ、という意見が出てきた。
これに対して、聴覚障害生徒と健聴生徒も猛反対しだした。
そして、一歩も妥協することはなかった。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23064637.html
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