教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
もうあかん、出来ヘン 勘弁して
もうあかん、出来ヘン。
勘弁して。
弁論大会直前に今にも泣きそうにしてやってきた聴覚障害生徒がいた。
「 虐げられてきたことの連帯と共感が笑いに変化の笑い」
の中で文章を書き上げた生徒だった。
参照
Google
http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2012/12/blog-post_24.html
何度も何度も練習したが、どうしても手指がうまく動かせない。
自分には表情がない。いつもと同じ顔。
これでは、参加したみなさんに申し訳ない、とただただうな垂れた。
異なった表情が出来ない
その時の気持ちが表情に表せない
僕は、N中学、山城高校での経験を通して、思った事を話したいと思います。
N中学校に入学した当時、僕は友達作りを頑張ろうと思いました。
しかし、2学期、3学期と月日が流れていくにつれて、その意欲を失っていきました。
の「意欲を失って」が出来ない。
例えば、机をゆさぶられて中の物を出されたり殴られたり、僕はとても苦しい思いをしました。
の「僕はとても苦しい思い」が出来ない。
相手はちょっとしたからかいのつもりでも、いじめられた方は傷ついてしまうのです。
の「いじめられた方は傷ついてしまう」
たとえば、僕は『7』の発音が苦手です。
『7』」を発音するのに苦しむ僕をからかって楽しむ生徒もいました。
そのたあ、この交流が終わっても何も学べないまま暗い気持ちで難聴学級に戻りました。
の「何も学べないまま暗い気持ち」が出来ない。
微妙なこころの変化を幾度も練習したが
僕が山城高校に入学した理由は、聴障生に対する配慮があったからで、また聴障生の先輩がいたからです。
そして、今度こそ僕は、本当の友人を作りたかったからでもあるのです。
の「今度こそ僕は、本当の友人を作りたかった」が出来ない。
そんな時でも僕を理解してくれる人が現われた時は本当に嬉しかったです。
の「本当に嬉しかった」が出来ない。
しかし、山城高校に入学して、聴障生の先輩の影響を受けたり、健聴生の友人作りに努める中で僕は、そのことに気づくことが出来たのです。
の「気づくことが出来た」が出来ない。
ということだった。
自分には表情は、現すことは出来ないと思い込んでいた
そこで、もう一度その部分の手話と表情をやってみてもらうと、最初の頃から天と地の違いがある表情は豊かになっていた。
「よく出来ている、その手話表現ならみんなに伝わると思う」
と言うと、
「本当。無表情だ、とばかり言われてきたので自分には表情は、現すことは出来ないと思い込んでいたけれど。」
「その時の気持ちを思いだして表現すれば必ず参加者に伝わるよ」
「いいの、いいの、もっとちゃんとしなければ……」
手話には、表現が大切と聞いて、鏡に向かって自分の表情を見たけれど少しも変わっていない。
顔を引っ張ったり、つねったりしたけれど「同じ顔」に見える。
落ち込み、落ち込み、考えた末の相談だった。
コミニケーションの本質をとらえていく生徒たち
手話は、手指の動きだけでコミニケーションするのではない。
それは、手話だけではないあらゆるコミニケーションがそうだ、と知って、自分の「不得意」を乗り越えなければ、苦労に苦労を重ねて参加するみなさんに失礼になる。
そういう実直な思いから、練習を重ねたけれど、どうもうまくいかない。
他の生徒を見ていると、どんどん表情が豊かになる、それ比べて……と沈んだ気持ちを吐露すること事態大きな変化だった。
このようなエピソードが数え切れないほど産まれ、手話弁論大会をむかえた。
彼の手話弁論は、真に迫るものがあり、ろうあ者はウンウンとうなずき、健聴者の中には涙を流す人もいるほどだった。
弁論が終わると大きな拍手が送られ、彼はうるうるした。
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23549300.html
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