教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
灯火に火を付けたのは 子どもたちの親だった
与謝の海養護学校をつくる時は、国の補助は少なく、京都府の巨額な単費持ち出し(養護学校建設補助金外に京都府だけが京都府の予算から費用だすこと。当時は、与謝の海養護学校のように重度障害児を受け入れるための国庫補助はほとんどなかった。)が可能だったのか。また、府議会もそれを承認したのかということがありますが。
・B
与謝・丹後地方の親の会が、各自治体の長、与謝・丹後地方のすべての市町長を説得していったことが大きな影響だったと思う。
「障害児教育のまさに僻地、そこに砦をつくろう」
と取り組まれて、与謝・丹後地方のすべての市町長が知事に要請する。
それがなければ与謝の海養護学校は出来なかっただろうし、そういう動きの中で京都府議会が動いた。
与謝・丹後地方はすべての市町長が蜷川知事に反対する長だったし、蜷川知事だけで出来るものではなかった。
それらを含めて、与謝の海養護学校をつくる灯火に火を付けたのは、子どもたちの親だったと私は考えています。
京都は後進府県だった
施設設備・教職員確保のための巨額な単費、在宅障害児が何名居て、何名入学するか試算するように言われた。
まったく見当がつかなかった。
松山、高知、広島などなどに調べに行き、どれくらい予算が必要か調べました。
京都が必ずしもすすんでいたわけでもないし、「先進府県」の様子を充分、何度も調べました。
京都は、病弱などなどは、後進府県だった。
東京や名古屋もすすんでいた。
京都府に、在宅障害児の数、必要な教職員数などなど出して、財政当局と話し合いを重ねました。そして蜷川知事の最終決裁。
明治時代は、京都府は先進府県だった。
しかし、その後すすんでいたかと言えばそうではなかった。
でも、障害児教育を取り巻く人々の動きが、それを大きく変えて行く。
京都では、障害者と親、その人々と手をつなぐ取り巻く人々の運動が、状況を大きく変えて行く。教育や福祉の分野で。
障害者が動かなければ
障害者運動も障害児教育も動かなかった
京都府が行った社会教育課の「ろばた懇談会」という取り組みも大きかった。障害者の人々の学習する機会を広げる。
例えば、料理の作り方を習って、それを食べながら話あうなど様々な方法が行われた。
そこに参加するように未就学の人を呼びかけても家の人は受け付けてくれなかった。でも、障害者の人が何度も訪ねると状況が変わってくる。
未就学の人が、参加する。みんなは拍手で喜ぶ。その輪が広がっていった。
何時間も歩いて、何度も行って、親から水かけられる。
そんな中で親も変わる。
・B
やはり、いろいろあっても障害者自身の人が動くと言うこと、だったと思う。
障害者が動かなければ、障害者運動も障害児教育も動かなかったのではないか。
京都は、他府県に比べて障害者自身が動いていったと言うことも言えると思う。それが、障害児教育に大きな影響を与えた。
民主主義とは、障害者と親、その人々と手をつなぐ取り巻く人々の運動から産まれると思います。
田中昌人先生は、早くから与謝の海養護学校と関わりを持っておられたのでは。
・B
早くから。全障研が結成される前に出来る前に全障研京都支部が出来た。
田中昌人先生は、その頃近江学園に居られて、ろう学校の全職員を前に話をしてくれはったことが。
その時の話が、難しい話で。受けとめる側が知識もないし、受けとめようともしなかった時代。
発達という言葉もなかった。
その後、全障研京都支部に参加してきた人々が、自分の仕事の中で障害児・者問題を考えはじめていく。
自分の子どもの問題。
あの頃は非常に大事な時だった。
自動車税の減免制度が出来たのも京都府税事務所に勤めて居る障害児のお父さんがみんなと相談する中で、考えて、制度化されていく。
自治体労働者の中の障害児の親からの話は、それまでの状況と違ってくる。
視点が違ってくる。
映画「人」に出てくるお父さんは、盲学校の用務員(当時の呼称)やった。
その人たちの協力、動き。映画を作った広報課の中にも障害児の親が居られたと思う。
全障研が、京都からはじまって全国に広がる。
非常にうれしかった。
田中昌人先生やN先生たち、新しい若い研究者が路を作り、方針を立ててくれた。
全障研京都支部の機関誌「夜明け」や「障害者教育科学」などなど出版活動をして広げてくれた。他の県でやれないことを京都はやってきたのでは。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24810422.html
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