教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
親が 教師を育て上げた
向ヶ丘養護学校の時には、障害の重い子どもたちも入るが、まだ全面的に入学出来るということではなかった。
・B
寝たきりの子どもたちの教育を受けとめるという教師自身の体制も出来ていなかった。
親は、寝たきりの子どもたちも向ヶ丘養護学校に入学させて欲しいと何度も府教委に来られたが。受け入れる側の体制が、整っていない、不充分でした。
与謝の海養護学校は、数年後だけれど、親も教師もすすんだ考えを持っていた。
親のほうが、教師を育て上げたと思います。
京都府で訪問教育制度がはじまった時に、蜷川知事は教師と保健婦(当時)が一緒になって訪問教育制度をすすめるように言っていたが。
・B
蜷川知事の人間観があると思う。
人間の発達観がある。
与謝の海養護学校建設の時に、府教委にいた私たちにいろいろ言われた。
蜷川知事は、はじめは
「障害児学級がたくさんある。そこを充実したらいいのでは」
と言われた。
みんなのねがいを実現しよう
でも、府教委としてはそうではない。
障害児学級は、京都市や各市町村が主管することになっている。
そこには、京都府として充分な対応は出来ない。
京都府として、京都府立として、責任を持って学校をつくる。
知事の立場で、知事の責任で、すべての子どもの教育を保障するというスローガンを具体化して欲しい、と話をしました。
それも、この障害は教育できる、この障害は教育できないという「除外」するのではなく、「あらゆる障害児を対象にした学校」をつくって欲しい。
すべて子どもが、みんなが行ける学校、など話をした。
すると蜷川知事が、
「みんなのねがいを実現しよう。」
と言った。
障害種別と言うことで子どもを差別してはいけない
どんな障害があろうともみんなが行ける学校
この頃、Tさんたちが蜷川知事に強く言われたのは
「知恵遅れだけじゃない」
「知恵遅れで重度の子どもたちは車椅子にも乗れない。寝たっきりの子どももいるのや」
「その子どもたちも含めて、みんなやで、」
と言われた。
子どもを大事にすると言うことは
こういうことだという学校をつくりましょう
「障害種別と言うことで、子どもを差別してはいけない。」
「どんな障害があろうとも、みんなが行ける学校」
「そんな学校をつくって欲しい」
とも言われた。
そういう経過や話のやりとりの中で、蜷川知事はTさんと握手して
「子どもを大事にすると言うことはこういうことだという見本の学校をつくりましょう。」
っと言われた。
そこから蜷川知事の視点が変わっていく。
日本三景のひとつをすべて見渡せる学校
特に、与謝の海養護学校をどこに建てるか、という用地問題があって由良の海岸にと言う話があった。(津波がきたら大変なことになっていたが。)
結局、山の上に立てるということになるが、みんな反対する。
「なんでこんな身体の不自由な子どもを山の上につれて行くんや」
とものすごい反対があった。
与謝の海養護学校建設予定地を蜷川知事らと下見に行った。
敷地やいろいろ見て、やっぱり高いところから天橋立が見える。
絶景の地。
これがいい。
「日本三景のひとつをすべて見渡せる学校は全国どこにもない。」
と蜷川知事が言い場所が決まった。
そして、路を作る、学校に通えるように周辺整備する。
最終決定は蜷川知事がした。
最初は由良のミカン畑のあるところだった。何回もそこに行って調べもした。
ここは、丹後・与謝・舞鶴・福知山・京都などに近い、便利やという考えだった。
ところが、(与謝の海養護学校建設予定地となった。)宮津市よりも先の岩滝町(当時)は、遠くて不便。
京都市内から親が面会に行くのも大変だ、でも蜷川知事は、この場所は後悔しない場所だ、と。
府教委と知事部局と絶えずやり取りがあって、最終的に与謝の海養護学校が岩滝町に建てられた。
出来上がって、学校に行った時、感動。
朝日、夕日に映える天橋立。綺麗な風景に感動した。
ミカン畑よりはるかに良かった、と思った。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24720689.html
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