教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
京都府障害児教育推進協議会ができる
・B
1070年代には、田中昌人先生の研究室には、よく顔を出して打ち合わせをした。
府教委の中で、京都府障害児教育推進協議会をつくりたい。
発案した。
養護学校義務制を前にして京都府・京都府教育委員会はどうするのか、それを検討するために研究を充分しないといけない。
すると京都府教育委員会教育長が、「そんな人がいるのか」というので「おられる」と言った。
「どこにいる」「京大に田中先生がおられる」というやり取りがあった。
与謝の海養護学校も出来ていたし、向ヶ丘養護学校もあるし、いろいろなメンバーがおられる、と言うと教育長が「やれるか」と言うので「やれます」と言った。
「府教委は誰がする」「私と障害児教育担当で」とのやり取りがあった。そして、すごいメンバーが委員になってくれはった。
でもこの頃田中先生は病気で、A先生、N先生、M本先生と私が、部会報告をよくした。
京都府障害児教育推進協議会最終報告が出て、丹波養護学校が出来て、舞鶴養護学校が出来て、それから南山城養護学校学校、中丹養護学校となっていく。
桃山養護学校の訪問教室が国立城陽病院(白梅病棟)に出来て、南山城養護学校の分校になって城陽養護学校となる。
この間国立病院の統廃合問題・国有財産処分問題があり、各国立病院が対応して、国立城陽病院の敷地内に養護学校出来るようになる。
・B
非常に複雑で捉えきれない推移が起きた時期です。
与謝の海養護学校が出来て、京都市内の子どもも入学出来たのは。
・B
京都府立ということで京都市内の子どもも入学出来た。
京都の呉服問屋のMさんとも与謝の海養護学校に子どもさんを入学させるかどうか、で与謝の海養護学校へ一緒に見学に行ったことがある。
列車の中で
「どないしょ」
「どないしょ」
と迷うつづけてはった。
その時、
「子どもが学ぶことが大切。」
「親が手をかさんと」
と話をしました。
結局、与謝の海養護学校に入学して。
その子は寄宿舎に入りますね。寄宿舎の「寮母」(当時)さんからすると京都市内のお母さんは、叱られるので「怖かった」って。風呂に入ってアザがあるとか、言ってこられて。
・B
与謝の海養護学校の体育館に行く時に階段を降りていかんならん。
その時、Mさんが自分の子どもには肢体不自由があり、少しづつしか歩けないのに何でよその子の手を引いて階段を降りるのか、と思って。
「ほっときなはれ」
ってついつい子どもに言ってしまったんやって、するとMさんの子どもが、
「おかあちゃん」
「このこがだいじにされへんかったら、ぼくもだいじにされへんのやで」
って言った。
「そのことばに学びましたわ」
って言ってはった。その話は忘れられん。
B先生は指導主事としてその後、どのような仕事をされたのですか。
・B
9年間指導主事の仕事をしました。課長も、他の指導主事も替わったが奇跡的と言っても良いほど長くいた。
指導主事をしていて非常に恵まれていたのは、学校教育課長をしていたのがI先生。嵯峨野高校に居られて、いつも話していた先生だった。
だから、長々と説明しなくてもはんこを押してくれるなど、スムースに仕事が出来た。上司に恵まれた。
障害児教育の担当分野が置かれるのではなく、学校教育課でごちゃ混ぜにされていた。学校教育か福祉担当の事務職員と特殊教育担当の指導主事の2人が行うことになっていた。
特殊教育から障害児教育へ
府教委の指導主事になった翌年すぐに特殊教育担当の指導主事の名前を、指導主事会議で論議をして、障害児教育指導主事という名称に変えました。
2人のうち、一人は知恵遅れ教育の担当。
私は、盲教育、ろう教育、肢体不自由児教育、言語障害教育、病弱児教育などの担当。
9年間の間にもう一人の指導主事はたえず替わった。落ち着かなかったようで。
知恵遅れ教育関係は、京都府下の各郡部地域(奥丹・中丹などなどの地域割りがあった。)の研究会に出かけていった。
教育委員会で一番言い続けたのは、高等学校教育や同和教育や僻地教育や女子教育などの教育がある。
でも、障害児教育の柱がなかった。
特殊教育は、盲学校や聾学校に任しておけばいいというような考え。
他の指導主事は、障害児教育に対してまったく知識や理解がない。
教育委員会がすべての人間に目を向けて
指導主事など教育委員会がすべての人間に目を向けて欲しい。
同和教育が、差別を受けているというならば、障害児教育も差別を受けている。目の見えない人と聞こえない人との間には、「差」がある。
盲・ろうとまとめて考えること自体問題がある。
それぞれ違いがある。
当時、盲学校に入学するよりろう学校に入学する子どもたちのほうが少なかった。
ろうあ児のほうがはるかに不就学が多かった。
だから、学校に行けるようにする取り組みが多く行われた。
「座敷牢」にいるろうの子どもを噂で聞いて、その家に行って話をしたり、地方の教育委員会と一緒になって、親を説得したりしました。
1960年代は、障害児教育の「夜明け」だった。
それまでなかった
障害児教育の分野を切り拓く仕事だった
9年間、それまでなかった障害児教育の分野を切り拓く。
1、ことばの教室の設置。言語障害児のための通級教室。聞こえの教室設置。 聴覚障害児の通級教室。
2、聴覚障害児の親たちが普通高校で健聴者と共に学習させたいという要求 を受けて山城高校での聴覚障害教育をはじめる。
ろう学校に一番近い学校と言うことで山城高校が考えられて、職員会議に府教委として説明に来い、ということで話しに行きました。
府教委は安易や、ろう学校はなんのためにあるんや、と手厳しく叱られて。なんで、山城高校なんや。
インテグレーション。
社会で生きていくこと。社会との交流。
山城高校は、ろう学校ではないが、聴覚障害者の権利保障の一環として後期 中等教育として、ぜひ、山城高校で受けとめて欲しい。
設備等は府教委で考えるから。
学校教育課長も話をした。
山城高校では、この問題をめぐってさんざんもめたらしい。
3、在宅障害児の教育を訪問教育で制度化。
養護学校義務制実施と同時にはじまるわけです。
4、与謝の海養護学校設立。
5、与謝の海養護学校の分校から桃山養護学校設立。
6、病弱児教育。
病弱児教育。難病の子どもたちの教育保障と発達権保障。
そして、舞鶴養護学校の建設。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24810422.html
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