教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
学びながら治療する・治療しながら学ぶための学校
・B
その後、舞鶴養護学校に5年間行くことになる。
そこで、全国病弱研究会が作られ、それが今も続いている。
癌の子どもたち、小児ぜんそく、白血病、糖尿病、あらゆる子どもたちの健康と発達を保障する。
学びながら治療する。
治療しながら学ぶ。
それまでは、病気の子どもは勉強せんでもいい、という考えやった。
そうではなく、学びながら治療する・治療しながら学ぶための学校、舞鶴養護学校を建設したんです。
丹波養護学校が1978(昭和53)年に出来て、その翌年の1989(昭和54)年に舞鶴養護学校が出来たんですね。
・B
養護学校の義務化は病弱児も含まれていたけれど京都府立養護学校にはそれがなかった。京都市立の桃陽病院の院内学級が桃陽養護学校(1989(昭和54)年4月1日)となる。
そこにある力、発想、人間の力の素晴らしさ
B先生は、舞鶴養護学校が出来た時に……
・B
舞鶴養護学校は、親たちが病院の子どもに教育を受けさせたい。
せめて病院内学級をつくって欲しいという運動からはじまる。
駅前で署名集めたりして、病院内学級を独立した学校にして欲しいなどの運動をされる。
それが実を結ぶ。
だから、いまだにその当時の親から礼状が来る。
「先生からのおかげです……」ともう何十年も経つのに。
そこにある力、発想、人間の力の素晴らしさを感じます。
京都府障害児教育推進協議会報告を活用 具体化した
・B
1年間は(病弱養護学校)準備室に行き、方針を立てた。
その時、京都府障害児教育推進協議会報告を活用した。
するとみんな
「どこから、こんな立派な文章が出てきたんや」
と聞く。
「京都府障害児教育推進協議会報告や」
言って、ではこれを具体化しようと言うことになっていきます。
25名の教職員が、そのことで取り組んだんです。
いじめたり、盗んだり、もめ事ばかり起きていたが
強く・明るく・豊かに を目標に据えた。
運営方針は、医療と教育の統一をしていく。
一番基本にしたのは、子どもたちの集団的自治能力を育てよう。
矢川徳光さんが与謝の海養護学校で講演された時のことを思い出して子どもたちに提案した。
病院内の院内学級の時は、いじめたり、盗んだり、もめ事ばかり起きていた。小児科病棟の中は大変だったようです。
舞鶴養護学校が出来てから子どもたちにきちんと話をして自治会組織をつくらせた。
輝かそう いのちを、と生徒会のスローガン
この時子どもたちが
「輝かそう いのちを」
という言葉をつくった。生徒会のスローガンとなって、子どもたちは校歌・作曲をつくる。
舞鶴養護学校つくる時に、府立学校で初めてエレベーターをつくった。
風呂をつくった。
すると
「なんで風呂がいるんや」
と府教委から言われて、
「病弱だから子どもたちと先生と風呂入って取り組むことが……」
と説明したりした。
病室で授業の様子を見て授業に「でられる」ように
(今だったらあまり費用はかからないが)感染症の子どもたちのために教室と病室を結ぶ視聴覚設備が作られた。
すべてソニー製品だったけれど。
ものすごい費用がかかった。
「登校停止」になった子どもたちは、病室で授業の様子を見て授業に「でられる」ように。
双方向方式で、質問も出来る。
このような形態の授業方法を考えたのも初めてだった。
視聴覚室は、スタジオもあるものすごい設備だった。
40人や50人の子どもたちのためにそこまでしたが……今どうなっているのだろうか……。
子どもたちの教育の宝としてすべて記録は、視聴覚室に残していたが。
ぜひ広島に来ませんか
舞鶴養護学校の子どもたちは毎年8月に「平和だるま」をつくって、箱に入れて広島の原爆資料館の館長さん宛に毎年送った。
必ず返事が来て、その時、「ぜひ広島に来ませんか」と書いてあった。
そこで、広島に修学旅行に行くことになった。
広島に行って館長さんと会った。
そのような中で、子どもたちは育っていく。
その舞鶴養護学校が、特別支援教育と言うことで統廃合されてなくなった。
( つづく )
http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/24873492.html
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