教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
首謀者の教師を探して押さえよ
ろう学校授業拒否事件、当時の京都府教育委員会は、「生徒たちがこのようなビラや行動を起こすはずがない」と生徒たちの行動を軽視し、生徒を先導する教師「要注意教師」「首謀者」、その教師をろう学校から異動させれば、事態はは収まると考えていたのである。
しかし、ことはそうはいかなかった。
「授業拒否事件」以降に、京都府教育委員会の「授業拒否事件」の担当者に予測ができなかった事態が起きたからである。
即ち、「授業拒否事件」以降、京都府・京都府教育委員会は、「首謀者」として京都府教育委員会に報告していた教師を京都府教育委員会の指導主事に抜擢すしたのである。
天変地異の出来事からのウエーブ
ろう学校の管理職やそれと通じ合っていた京都府教育委員会担当者には、「天変地異」の出来事であった。
京都府教育委員会の「授業拒否事件」の担当者がろう学校管理職とともにろう学校と高等部やろうあ協会を押させ込もうと画策していることをまったく知らず、新しく指導主事になったろう学校にいた教師は、「授業拒否事件」の一連の書類をみて自分が首謀者として生徒を扇動したという報告書を見て驚愕する。
ろうあ協会・ろう学校同窓会・ろう学校高等部の生徒たちの要求を正当な要求とみていた
このことは、京都府と京都府教育委員会が、ろうあ協会やろう学校同窓会・ろう学校高等部の生徒たちの要求を正当な要求とみとめていた証であった。
そして、京都府と京都府教育委員会がろう学校の生徒たちやろうあ協会・ろう学校同窓会の要求の正当さを認め、ろう学校教育やろうあ者福祉に根本的「改革」をはかろうとした決意の現れでもあった。
京都府や京都府教育委員会は、「授業拒否事件」などを切っ掛けに、府民の要求に応えて当時あった就学猶予・免除を無くすべくすべての障害児教育保障の画期的展開方向を打ち出していく。
このことは、京都ろう学校で起きた「授業拒否事件」が大きな影響を与えたことを知る人々は極めて少ない。
「学校」としての基本的原則を守る
ここでは、1965(昭和40)年7月11日 京都府立ろう学校の授業拒否事件で、ろう学校やろう学校の教師たちは、なにを考え、改善・改革の方向を打ち出していくべきであったか要点だけを述べておく。
① ろう学校が、ろう学校という以前に「学校」としての基本的原則を守るべきであった。
このことを書くと、当時惜しみない努力と日本でも先駆的なろう教育を進めていた教師までも否定することになるのではないか、と言われてきた。
ろう学校の教育やろう学校で事件が起きる度にくり返しろう学校の一部の教師から発せられた言葉であったからである。
たしかに、日本でも先駆的なろう教育は京都ですすめられていたことは、いくつかの事例であげられる。
ここでは1例だけをあげておく。
「授事業拒否事件」が起きた時、教師と生徒で、「そのようなことを言った」「言っていない」ということがしばしばあった。教師の側から聞こえない生徒が「聞き間違っている。」とする発言である。
先生の言ったことが充分聞き取れる生徒がいるのに
ところが、生徒の中には先生の言ったことが充分聞き取れる生徒が居た。
補聴器を装用していて聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が複数居たからである。
生徒会の中で、これらの生徒を含めて先生の言ったことが、どうだったのか、が絶えず確かめられていた。
その上で、生徒たちが先生の言ったことは、こうだった、と言ったのである。
ところが、補聴器を装用していて聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が居ることすら認識していない、一部の教師は、生徒の言っている事は「違う」と主張したのである。
聞こえる、聞こえないという根本に関わることすら理解できないろう学校の教師が居たのである。
この補聴器を装用していて、聞こえる人々の発言をほぼ聞き取れる生徒が居たことは、京都ろう学校で聴能教育の先駆的実践と繋がる教師たちがいたからである。
先駆的実践をしていた教師と「素人同然の教師」
ところが、その「先駆的実践者」である教師と生徒がどのように聞こえているのかすらも知ろうとしない「素人同然」と言われても仕方がない教師がろう学校では「混在」していた。その教師たちが主流であったとも言える。
ろう学校として一定まとまり、一定の水準を維持していなかったからろう学校に対する批判は、先駆的実践をしていた教師までを否定することにならない。
「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」
という生徒の要求に対して、ろう学校の専門性を問題にする以前に学校として原因を追求し・反省して、改善すべきであったのである。
普通校では、当たり前のこととして行われれている教育原則が、なぜろう学校で守られていなかったのか。ろう学校も教師も深く反省すべきであった。
ろう学校として一貫性がなく 各学部でバラバラ
② ろう学校は、対外的には「ひとつの学校」と見られていたが、ろう学校の内部では、幼稚部、小学部、中学部、高等部など各部がそれぞれ「まったく別な学校」として「存在」していたことを改めるべきであった。
幼稚部、小学部、中学部、高等部など各部が一貫性を持った学校として設立されていたのだからその特徴を生かした教育を進めるべきであった。
今日では、一貫教育とよく言われる。
当時の京都ろう学校が幼児期から青年期までの「一貫性」の機能を持ちながら、内実はまったく逆でばらばらで統一性のない動きをしていた。
そのため「授業拒否事件」は、対外的には、ろう学校で起きた事件として認識されていたが、ろう学校内部では、「あれは高等部で起きた事件」とされ、ろう学校全体の問題として、認識されず、検討もされてこなかったとも言える。
「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」
という背景には数多くのろうあ者の不満がある。
ろう学校全体でまとまり ろう教育への実践を
事件が起きた当時ろう学校卒業生の多くから聞いた話は、「私は、小学部6年なのに教科書は4年生の教科書で授業がされた。なんかへんだった。」などなどのことがある。
そのことをろう学校の教師に聞くと「ろう学校の生徒は、聞こえないから4年、5年、6年遅れた授業をしているのだ。」という話がしばしば、返ってきた。
「遅れがある」ならそれ以降の学年で取り戻すようにされているのか、と言えばそうではなかった。
高等部になると普通科教育はなく、「手に技術をつけてこそ、ろうの生徒は生きていける。」として、職業学科が置かれていたからである。
では、その職業学科。例えば和裁の課程を卒業した生徒が、和裁で自立して生活できていたのか、と言えばほとんどは関連のない仕事か、例え和裁の仕事についても薄給でしかなかった。
そればかりか、奴隷的労働を強いられしばしば問題になった事件は数知れない。
ろうあ者やろうあ協会は、これらのことを充分承知していた。
だから、ろう学校は、「授業拒否事件」を教訓にろう学校の各学部がばらばらではなく、ろう学校全体で大綱的基準でまとまり、その機能を発揮すべきであった。
③ ろう学校では、教育方法や教育改革をろう学校としての専門性から深く追求し、ろう教育の規範を示すべきであった。
「授業拒否事件」が起きた時期。
ろう学校の幼稚部では口話教育を徹底し、インテグレーション(幼稚部では対応教育と言っていた。)として、幼稚部の生徒を普通校に積極的に送り出し、インテグレーションができなかった生徒が、小学部に行くという生徒の能力主義、序列化傾向が強まっていた。
1970年代になると、幼稚部を卒業し、普通校に在籍する生徒がろう学校の小学部・中学部・高等部の生徒数を上回る事態も生まれていた。
この時期、この問題をめぐって②の項で述べたようにろう学校全体の中で充分論議されることなく事態が進行していったため、京都の教育に少なくない混乱が生まれた。
それを克服して行くには、少なくない時間と普通校の教師の少なくない奮闘が必要とされた。
しかし、インテグレーションの方法がよかったのかどうか、という激論があったが、今日、注視しなければならないことは、授業拒否事件の時に生徒たちが出した、「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」ということである。
( つづく )
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