Once upon a time 1969
すでに、「名も知られていないが 非凡な芸術作品を世に」のところで、後藤さんのメールのやりとりで、次のような事を書いた。
ろうあ協会の中で共感する人がなく、落胆している後藤さんに、ひとつの提案をした。後藤さんの画が売れて、お金が貯まったら一緒にろうあ者の「芸術作品集」を作ろう。出版しよう。もう亡くなったろうあ者も多くいるが、その人たちへの尊敬の念も込めて、世に問おうではないか、と。後藤さんは、大いに歓迎してくれて、それから彼の書いた画がどれくらい、いくらで売れたか、のメールが次から次へと送られてきた。
第1集が作れるかも、と思っていた時、後藤さんはとんでもない、ことを言い出した。
非常な不安感に包まれたが
とんでもない、ことを言い出した、と書いたが、最初後藤さんから送られてきたメールを読んだ時の第一印象で今は深く反省している。
メールの内容は、「平和行脚をしたい。」という事であった。
じぶんの画で、全国の人々に平和の大切さを訴えたい。それが、平和行脚の内容だった。
私は、後藤さんの趣旨には大いに賛成だが、正直に言って画が売れなくなって、ろうあ者の「芸術作品集」が作れなくなる後藤さんも私も強くねがったろうあ者の「芸術作品集」は、永遠にこの世に広めることは出来なくなることも心配だ、と率直にメールを送った。
しばらくして、それでも「平和行脚をしたい。」という返事とともに、売れる絵と売れない絵の二本立てで……と結局、少なくない芸術家がそうせざるを得ない道を後藤さんは、選択してきた。
それでも、執ように「後藤さんのことだから、売れない絵に傾注する。ああ、ろうあ者の芸術作品集は断念か」「でも、絶対、平和行脚の画の中に長崎を入れて欲しい。その時は、一緒に行こう。」と返事した。
この頃、後藤さんが生命の終わりのカウントダウンを計算して、書きたかった画を描き続けたい、という気持ちを感じて非常な不安感に包まれた。
アイシュビッツをどう描くのか
アイシュビッツに行く。
そのメールが送られてきたのは、数日してからだった。
私は、あまり知られていない、アイシュビッツのこと。第二次世界大戦中、アメリカが、日系アメリカ人を強制的に収容所に入れたこと。その日系アメリカ人から志願兵がでて、最前線に赴いたこと。日系アメリカ兵がユダヤ人強制収容所を「解放」した時のこと。などなど知るうることをメールした。
同時に、後藤さんが、アイシュビッツをどう描くのか、も注視した。
「負の遺産展」と名付けての「平和の全国行脚」
しばらくして「負の遺産展」と名付けて、「平和の全国行脚をしたい」という返事が来た。
ユネスコにちなんだ名称であることもよく解ったが、絶対、日本も描いて欲しいところがあると強調した。
ポーランドから帰国して、すぐ、後藤さんは、「負の遺産展の全国行脚」をはじめた。各地で、展示されるから見に来て欲しい、と何度も連絡が来た。
やっと、N県で全国の手話通訳者が集う場所で、「負の遺産展」も開かれたので、見に行くことが出来た。
わずかに残った頭の毛をなでて「こんなもの」と
会うそうそう、「ちょっと一服してくるから受付頼むわ」と後藤さんは、すたこらとどこかへ行ってしまった。
昼休み時間。
手話通訳者が会場から出てきたが、「負の遺産展」を見る人もほとんどいなく、通りすぎるだけだった。
私は、飛騨高山で、後藤さんの画の前で佇み、涙した人とのあまりにも大きな違いに驚き、手話通訳者の考えや感性はどうなっているのか、と心配になった。
戻ってきた、後藤さんにそのことを言うとニヤッと笑い、わずかに残った頭の毛をなでて「こんなもの」と言った。
俺が覚悟して平和行脚をしているのを解っているだろう、という意味はすぐわかった。
あまりにも 残酷すぎるから
やっと、後藤さんのアイシュビッツの画をみることが出来て、一通りみて、質問した。
「なぜ、ガス室だけが色鮮やかなの」
っと、すると後藤さんからは、
「あまりにも、残酷すぎるから逆に色づけしたのだ」
という返事が返ってきた。
たしかに、そうだった。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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