教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(34)
今の府立学校では、金沢に行って障害者問題を学びたいという生徒の要求(special needs )に応えて県外に行く新しい取り組みをするとなると膨大な書類とチエックが入り、とてもじゃないが実施できないだろう。
ましてや指導主事の自宅に泊めてくれるなんて考えることすら出来ないだろう。
校長は、生徒たちの要求と自主的努力に非常に感激して
「うまくみんなの願いが叶って、学習できたらいいな」
「そこまで聴覚障害生徒たちが考えているのか」
と、勇気づけてくれた。
このことばの背景には、事故などがあれば校長が先頭になって責任をとる、事態の解決にあたる、と言う表明であった。
生徒が、成長し、学ぶことを共有できた時代であった。
高校生が参加すると言うことすら解ってもらえなかったけれど
集会参加にあたり、集会で発言する、質問する練習とともにコミニケーション保障のことが話題になった。
金沢の障害者集会準備をしているところに問い合わせても、聴覚障害生徒の聞きたい、話したい、という要求はあまり理解されていないばかりか、高校生が参加すると言うことすら解ってもらえなかった。
生徒たちは手話がわかる生徒もいるし、口話が非常に達者な生徒もいた。また、補聴器で大集会でもスピーカーから流れる声を聞き取れる生徒もいた。
でも、聴覚障害生徒のそれぞれの状況を考えて準備し、集会に参加しようと言うことになった。
聞くためのあらゆる機器を持っていこう

その中で、筆談用の紙、発表用の模造紙はもちろん、学校の録音機器(後でもう一度学習して、聞き間違っていないか確かめるため。)なども持っていこうということになった。
一番の問題は、学校のオーダーメイドの集団補聴器だった。
重い、でかい、マイクなども含めるとかなりの重量になった。
でも生徒たちは、体力に合わせて全員が何かを持って集会に行こうと言うことになった。
あらゆるコミニケーション手段を使っての会話が、列車に溢れた
早朝の京都駅。
生徒たちは、いい服(当時山城高校に制服はなく、生徒の自由にまかされていた。)を着てやって来たが、お互いの荷物の大きさに笑い合ったりした。
体力のある生徒でも10㎏ははるかに超えていた。
列車の中では、席の譲り合いや話で盛り上がった。
身振り手振り、大声での会話。
聞こえる人にめいわくになる「シッー」と唇をあてて合図。
本当にあらゆるコミニケーション手段を使っての会話が、列車に溢れた。
一番聞きたかった
河野勝行氏の「日本の障害者-その過去・現在および未来」が
みんなにとって初めての金沢。
暑さの中を重い荷物を持って開会式場へ。
だが、1階の席は満席。
仕方なく、二階へ。
演壇は遠く見えるけれど、聞き取れる生徒は、筆談身振りや列車で身につけたコミニケーション手段で生徒同士連絡を取り合った。
だが、一番聞きたかった河野勝行氏の「日本の障害者-その過去・現在および未来」の記念講演。
重度の障害がある彼のことばは、スピーカーから流れても全員が聞き取れなかった。
介助の人の通訳はあったものの
「なんとか、河野さんの声が聞きたい」
というのが、聴覚障害生徒のねがいだった。
そして、講演の要旨のレジメを一生懸命に読みふけっていた。
みなさんにはもうしわけないのですが
それから分科会場へ。
分科会場は、学校の教室だったのでコンセントがあるはずだと思っていたのにいくら探してもコンセントがない。
集団補聴器を持ってきたのに結局無駄か、とあきらめつつ時間切れとなって分科会がはじまった。
と、E君が手を上げて
「みなさんにはもうしわけないのですが、私たちはこの集団補聴器を持ってきて……」
と説明しはじめた。
その間、教師は本部に行って話し合い、分科会場のみなさんが了解してくれるなら別の分科会場を準備する約束を取り付けていた。
E君の話を聞いた分科会の参加者は全員移動に賛成。
少し休憩して、別教室で集団補聴をセットして、発言者はマイクを持って話してくれた。
分科会が終わって、参加者からいろいろ質問があったと富山県井波への帰路は話がさいたとのことだった。
集団補聴器などの重いものは、本部が大会終了まで管理してくれると約束してくれたのもうれしい、という声が夜の本堂の交流会で続出した。
そして、本堂で就寝についた。
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