教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
校舎が薄暗い くぐる校門も薄暗い 教室も薄暗い
楽しい学校のためには、まず夜の校舎が明るくなければならない。
そのため、校舎、教室の照度をとり上げた。
視覚障害や聴覚障害生徒がいるクラスは、学校保健法・施行例など教室の照度を最低基準を2倍としなければならないことなどを調べ、校長・事務長(当時の名称・京都府の出納責任がある。)にその改善をせまった。
夜。通学してくる校舎が薄暗い。くぐる校門も薄暗い。教室も薄暗い。
こんなことで、定時制生徒がいそいそと学校にやってこれるとは思えない。
教職員の要求に、校長も事務長
「そのとうり、つねずねそう思っていた。」と答え京都府教育委員会に行った。
生きていた 戦時中の学校設置の教室の基準
帰ってきた校長はしょんぼり。
「高等学校設置基準では、教室に一灯あればいいとなっていて国からの補助対象は、電球1個分の灯りでいいことになってほとんど国費がつかない。」
「なんとか、今の蛍光灯を増設して、廊下、校門周辺を明るくしてほしいと京都府教育委員会に要望してきたけれど……」
という回答。
今、教職員も含めて暗いと思っている校舎につけられている蛍光灯は、京都府の独自予算から出されていることが解った。
戦時中の学校設置の教室の基準が、1970年代になっても生きていたのである。
戦争体験した教職員の怒りは、収まることはなかった。
教職員の対立の原因になっていた「わかる授業」
こられの問題は、その後徐々に改善されていくが、学校の校舎は修理、改善しなければならないところがあまりにも多すぎた。
すでに書いた部分があるが、「わかる授業」という問題は、山城高校定時制で聴覚障害生徒を受け入れる制度がはじまったとき、から教職員の対立の原因になっていた。
京都府教育委員会は、聴覚障害生徒の受け入れ時に説明したことばの一つに
「健聴生と同様の授業をやれば良い」
ということがあった。
でも、入学してきた聴覚障害生徒は、ほかにもさまざまな障害があることや難聴学級などで「かゆいところまで手の届く指導」をしていたので、すべて受け身の授業であった。
片方でさわぎ5分もいすに座っていられない生徒。
絶えず出入りを何度も繰り返す生徒。
熱心に授業に取り組む生徒。
授業は、大変な状況にあったが、それは別世界のようにとって聴覚障害生徒たちは、先生が何かしてくれるだろう、と授業進行の注意事項などをただポカーンとしていているだけだった。
先生がなにも知らせてくれない 難聴生徒を馬鹿にしている
後で先生が自分たちだけに特別教えてくれる、と思い込んでなにもしないでいる聴覚障害生徒たちは、
「先生がなにも知らせてくれないからだ。」
「難聴生徒を馬鹿にしている、差別している。」
と騒ぎ出し、親の一部には聴覚障害生徒を受け入れる教育制度は出来ないことが原因だと言う意見がくすぶり始めた
このような状況だから、当然、授業の進行が解らず怒り出し、先生に言えないで家に帰って親に言い、親から学校に抗議が来るという問題が出てきた。
健聴生徒のことを考えて授業をすると聴覚障害生徒がさわぐ
聴覚障害生徒のことを考えて授業をすすめると健聴生がさわぐ
そのため、もともと聴覚障害生徒の受け入れに反対だった教師は勢いづいて
「京都府教育委員会の言った、健聴生と同様の授業をやれば良い、の話はいい加減だったんだ。」
「聴覚障害生徒たちは、聞こえているのか、聞こえていないのかわからない」
「健聴生徒のことを考えて授業をすると、聴覚障害生徒がさわぐ。聴覚障害生徒のことを考えて授業をすすめると、健聴生がさわぐ。」
「一体、どっちのために授業をすればいいのか。」
「もともと、日本語も充分でないのに教えること自体不可能なことなんだ」
痛烈で全面否定の発言がでた。
その時、非常に温厚で紳士で知られるある先生が、静かに手を上げて発言を求めた。
Esperanza
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