2014年5月24日土曜日

Educational Needs のごまかしの訳語の横行




教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 近年、文部科学省が特別支援教育とか発達障害と言い出すと一斉に今まで耳にしたことがない言葉が飛び交いだし、さもさも新しい教育がはじまるかのように印象づけられている。


  特別支援教育は新時代か


 しかも、文部科学省が「特殊教育」から「特別支援教育」と名称を変えたことを、新時代として絶賛する研究者が非常に多い。


 そういう人にかぎって、それまで特殊教育なり文部省の問題だらけの教育を克服して新しい教育方向を創造してきた人々も「十把一絡げ」にして、過去のものと決めつけている。

非常に単純な発想に驚きを通して、恐怖さえ覚えることがある。

 
 不均等な日本語訳の背景


 ひとつの例をあげてみよう。


   特別な教育的ニーズ、教育ニーズ、教育的なニーズと言う人々は、なぜか、ニーズ(needs)だけは日本語にしない。


 なぜだろうか。


 教育委員会や福祉にさまざまな障害者の要求をもっていったひとは、役所の担当者から「ニーズがあるかどうか分かりませんので、調べた上でお答えします。」とか「そういうニーズはないので、出来ません。」とよく言われている。


 この場合のニーズ(needs)は、行政側の「必要」や「需要」という意味であって、障害者の側に立ったニーズ(needs)ではないのだ。

 教育的なニーズと書いている論文をよく読むと、教育的というのは教育だけではなくという意味合いが含まれている。

では、具体的に教育以外のどんなことが含まれるのかはさっぱり書かれていない。



   ニーズ (needs)でごまかされていないだろうか


 ニーズ (needs)となると、どのようなことをニーズとしているのかまったく解らないのである。


 最初は、読み手の側の問題かと思い原書を読んでみると何のことはない、Special Educational Needsや Educational Needsの翻訳のしかたに行きついた。


  Educationalは形容詞の意味合いがあるので「教育的」「教育的な」「教育の」としてneedsに「かけている」のである。


 ところが、needsを日本語訳すると行き詰まって「ニーズ」としているのである。


 それならいっそう「エデュケーショナル ニーズ」と書けばいいのにそうはしない。


 一見中途半端な日本語にするには、日本語力の問題か、英語追随か、その他のことがあると思えてならない。


 日本語にきちんと翻訳すると「新しい教育」の意味合いがなくなるので「粉飾」していると思うのだが、こう書けば批判は殺到するだろう。


 でも冷静に考えてほしい。この間この問題等で調べたり、考え抜いてきた。


    教育要求としても何ら誤訳ではない


 でもあえて言う。

   Educational Needsを教育の要求、教育要求としても何ら誤訳ではなく適切な日本語訳ではないかと。



 このように「教育要求」とすると要求する側と要求を受ける側がはっきりしてくる。
 
 教育委員会や福祉にさまざまな障害者の要求をもっいていったひとは、役所の担当者から「要求があるかどうか分かりませんので、調べた上でお答えします。」とか「そういう要求はないので、出来ません。」と言えなくなるだろう。



 要求しているのに「あるかどうか」なんておかしい。
要求しているのに「要求はない」なんて、許せない。



となるだろう。
 
  みんなの要求を「誤魔化す手段」としてのカタカナ表記が使われていないだろうか


 このカタカナ文字表現や一部英語一部日本語の組み合わせは、しばしば切実な要求を「誤魔化す手段」に使われていないだろうか。


 教育要求をだす。


 このことは、イギリスやドイツやアメリカなどの例を出すまでもなく、日本は早くから教育要求をだし、教育内容や形態を変えてきた先進国なのである。


 それは、国がしたのではない。制度がしたのではない。


 多くの偏見や誤解をひとつひとつ取り除き、みんなが理解しあい、手を結んで行政の壁を打ち砕いてきたからなのではないか。


 まだまだ問題は残っているが、新しい教育はみんなの理解と協力の中で生みだされ広げられて、創造されていくものである。


 行政が上から「命令して」つくられるものではなく、行政はみんなの教育要求をとことん聞くべきなのであり、それを具体化していくべきである。


 1960年代のろう教育をめぐる諸問題もそのことを具体的に教えていると思う。


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2014年1月24日金曜日

よくも 悪くも解釈できる インクルージョンinclusion の本質的意味



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  独自予算が持てない日本の教育行政

  インクルージョンinclusion は、障害児やそうでない子ども、すべての子どもが「平等」に学べること、共に学べることと解釈している人々が多い。

 だが、本当に日本ではそうなって来ているのだろうか。

 教育予算が、国家・地方行政では一定の比率で決められ独立して執行される国と日本のようにその時々によって執行される場合とでは大きな違いがある。
 とくに、日本では教育行政は独自予算が持てなかった。
 それが、ますます強まり、国や首長の権限が一層強化されてきている今日の状況下で日本のインクルージョンinclusionを考えなければならないだろう。

 インクルージョンを適切な日本語訳をしないのには訳があるように思える。

  「不純物」とも解釈される意味合いがある

          インクルージョン

   inclusionは、もともと含有, 包含, 包括;算入;加入.  含有物などの日本語訳がされてきた。

 現在広く使われている「包含」「包括」などのことばを考えれば、異なったものを「つつみこみ」「中にふくんでいる」ということになる。

 包まれるのは?
 包むのは?

と考えるとおのずから障害児とそうでない子どもを分離している考えに行き着くだろう。

 さらに、英語のinclusionは、純粋に対する混ざり物という意味があり、インクルージョンinclusionは、教育における「不純物」とも解釈される意味合いがある。
 ところが一方、スペイン語では包含的という意味合いがあり、両方のうちのどちらも認めるという意味合いもある。

  英語圏だけが「国際」ではない

   これらのことを述べると切りがないが、英語圏の訳や意味のみを日本に持ち込んでくるのは大きな疑問が残る。

 そればかりか、国際的動向と言いながら英語圏だけの理解や取り組みを広げるのは、英語圏以外の国々を無視したことになり、あたかも英語圏の国々が先進的だと言わんばかりの様子が醸し出されるからである。

  なおざりにされてはいないだろうか 
    日本の教育実践を他国に知らせること


  インクルージョンinclusion は、障害児やそうでない子ども、すべての子どもが「平等」に学べること、共に学べることと解釈している人がいるならむしろ統合教育ということばのほうが適切ではないだろうか。

 かって文部省が使っていた用語であるが。

  聴覚障害教育の歴史と実践を見れば、インクルージョンinclusion を解釈するまでもなく、日本での教育発展における学ぶべき教訓が見えてくる。

 
 日本の教育は他国から学ぶことは強調されても、日本の教育実践を他国に知らせることはなおざりにされてはいないだろうか。

 
 教育にたずさわる人々と生徒たちの貴重な教訓が山積みにされていることを忘れてはならないだろう。

 そのことを踏まえて京都ろう学校の「授業拒否事件」や幼稚部の教育・インテグレーションをもう一度考えて見る。




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2014年1月19日日曜日

なぜ 日本語に出来ないか 日本語表記にしないのか  インクルージョンinclusion の本質的意味と概念



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
向かっているだろうか
 多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会

 文部科学省は、

「これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等が、積極的に参加・貢献していくことができる社会である。それは、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会である。このような社会を目指すことは、我が国において最も積極的に取り組むべき重要な課題である。」

として、


 「障害者の権利に関する条約第24条によれば、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が「general education system」(署名時仮訳:教育制度一般)から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な『合理的配慮』が提供される等が必要とされている。」

ということを明らかにしている。

  包括の意味と文部科学省の意図

 ここで、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)と仮訳であっても「inclusive包容」と日本語訳している。
 


 ところが、包容とは、
 包み入れること。
 包み込んでいること。
 広い心で、相手を受け入れること。

であり、その後、明確に日本語訳していないため、インクルージョンinclusionは、包括的なとかさまざまに解釈され、その解釈の基に「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、)が論じられている。

 近年、このようなカタカナ表記の傾向は教育現場に大量に持ち込まれ、その解釈は主張する側や受けとる側などで主観的に受けとめられ、各々が分かったつもりで意味合いはまったく異なった状況が横行している。

 このような事態はなぜ生まれるのか。

  国民の責任にして 教育予算を削減する

 それは、教育行政の最大の責任を有する文部科学省が自らの責任と教育を受ける権利を明らかにしないからではないだろうか。

  包容が、「包み入れること。包み込んでいること。広い心で、相手を受け入れること。」であるとするならば、そのような条件を整えるべき責任は文部科学省にあるだろう。
 国際間の条約を認めた以上は、その国に責任が問われるからである。

 ところがことばの「使い分け」で、責任の主体をあいまいにしているのである。

 誰が、という主語が記載されないことによって。

  国際的とは 世界の国々の状況を見据えて
  障害者の権利に関する条約は、いわゆる「先進国」から提案されたものではない。
 学校もない、学校も行けない、読み書きが出来ない国々から出されたことを想起するなら、おのずとインクルージョンinclusionの意味は理解ができる。

 ともかくすべての子どもたちが学校に行けるように、ということが第一次課題となっている国々では障害がある子どもも障害がない子どもも「インクルージョンinclusion」として教育が受けられるようにする事が教育保障の切実な要求なのである。

  戦後
 日本の教育が形成された教訓をしっかりとらえてこそ

 戦後の一時期の日本のように戦争孤児たちの教育の中から障害児教育が発展し・分化してきたように。

 では、経済的に裕福な先進国は、障害がある子どもも障害がない子どもも「インクルージョンinclusion」としてどのような取り組みをするのか、ということが問われて来る。

 「インクルージョンinclusion」は、それぞれの国の経済状況によって異なった対応をするものであり、経済状況と切り離せらレない問題でもある。

 ところが、近年の日本では特に経済状況を切り離して「インクルージョンinclusion」が論じられるから混乱した理解が横行する。

 日本における教育予算の削減と「インクルージョンinclusion」について論じる人が極めて少ないがゆえんに「インクルージョンinclusion」は、国民的理解の問題に主題が置かれてしまっているようだ。

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2014年1月17日金曜日

インクルージョンinclusion の本質的意味と概念  戦後 障害児教育に教育予算を使うことを否定してきた文部省 



 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 カタカナ表記と日本語表記の大きな違い



 かって文部省は、カタカナ表記をせずに日本語表記を貫いてきた。

インテグレーションという用語が文部省 協力者会議の報告で出された場合も「統合教育」などの用語を使うようにしていた。

 統合とは「二つ以上のものを合わせて一つにすること」の意味であり、「適応教育」や「対応教育」とその意味合いは違っていた。



  絶えず教育予算の削減を考えていた
      国の動きに対峙して

 
  障害児教育と普通教育とをひとつの教育にするという考えである。


 だが実態は、障害児を普通学校で学ばせるということであり、それにともなう「教育予算措置」「教員配置」はおこなわれなかった。

 むしろ障害児学級や障害児学級に対する予算措置も減らせると考えていたようである。
 1960年代は、就学猶予免除の名の下に多くの障害児は学校すら行けなかった。
 そのことに対して、「すべての子どもにひとしく教育を」という運動が大きなうねりとなり、国の文教政策を転換させてきた。



  考え抜いたあげくに生まれた
   「すべての子どもにひとしく教育を」




 「すべての子どもにひとしく教育を」は、

憲法「第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」


を充分吟味したっものであった。

 すべて国民はとして、国籍を持たない子どもたちの教育が保障されないことは許してはならない。

 とくに戦前の教育実態を考えて、憲法二十六条の「ひとしく教育を受ける権利」を考慮し、国民に「義務」を「枷ながら」一方では、その「義務」を国民が「猶予・免除」を願い出る二重の問題。

 それらを考え抜いたあげくに「すべての子どもにひとしく教育を」ということが憲法の精神なのだと捉えてきた。

 文部省(当時)は、

「法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

という普通教育、無償ということも蔑ろにしてきた。



  いったん認めても、認めるときには
                   すでに「切り捨てる」文教政策




 しかし、文部省は、国の障害児の教育保障への責任は、逃れられないとしてそれを認めつつもそうではない方向を考えていた。

 いったん認めても、認めるときにはすでに「切り捨てる」文教政策を打ち出してきたのが国・文部省の方針であったのではないだろうか。


 その交差する時期が1960年半ばから1970年にかけてであり、京都ではインテグレーションと授業拒否事件が同時期に投げかけられた問題であったとも言える。
 

 文部省は、統合、混合、交流、適応などさまざまな用語を持ち出し、教育現場に押しつけてきたが、すべてがそれに従ったわけではなかった。
 むしろ、それに対して教育現場から創造的な教育の方向が出されてきたが、躍起になってそれを打ち消そうとする競合関係が長く続いてきた。

]  インテグレーションIntegration   メインストリーミングmainstream はその時期として考えなければならないだろう。


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2014年1月10日金曜日

インテグレーションIntegration メインストリーミングmainstream インクルージョンinclusion の本質的意味と概念


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


これまで、京都ろう学校の授業拒否事件を述べてきた。
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http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2013/08/blog-post_28.html
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また、インテグレーシュン( 対応教育 )の概要を掲載してきた。
 でもこれはほんの一部に過ぎない。

  過去の教育を十分研究しないで
                  断定が横行する今日の背景

 調べて見ると長い時間とさまざまな問題が複雑に交差している。

 今日それらを紐解くことなく、過去はダメで、これからは……と断じる人が多い。

 過去のどこがダメで、どのようにすべきであったのか、その教訓にもとずいてどうするべきなのかということがまったく試みられていない。

 特殊教育から特別支援教育へと発展していると「発達障害」を論じる人々は、特にその傾向が強いようように思われる。

  Special な教育は低位な教育ではなかったはず
    実態の離反が産んだ問題

 特殊教育とは、英語ではSpecial educationとなる。

 Special としながら、特殊教育を一般教育より低位にされていた事実をどのように考えるのかを考えない限り問題は解決されないのである。

 特殊教育という日本語を否定しながらSpecial Needsと言って何ら疑問を感じない人々が多すぎるのであえて提起をしておきたい。

ろう学校に手話だけが導入されても
 すべてがうまくいくことではない

 また手話を学ぶ人々の中では、京都ろう学校の事業拒否事件は、口話法に対する手話で学びたいという生徒のストライキであった、と断じ、ろう学校で手話による教育を、と言い続けている。

 だが、このことは本当にそうなのかを検証してほしいものだと思う。

 1960年代に手話を教えてくれたろうあ者は、手話表現の自由で闊達な特徴を誇らしげに教えてくれた。

 そこには、こうでなければならない、というワクはない。またこれが正しい、あれは間違いだ、と決めつけるものはなかった。

 たしかに、手話表現をめぐって論争はあったが、それは、コミニケーションをより深めるものとしての論争だった。
 大阪市立ろう学校と京都ろう学校の卒業生同士の手話表現をめぐる論争もそのひとつだった。

 ろう学校で、手話を全面的に採り入れればろう教育は大きく発展するのだろうか。
 この問題に対していつも言うのは、聞こえる生徒ばかりの学校で、なぜ生徒たちは授業にについて行けなくなっているのだろうか。
 コミニケーションの条件はあってもコミニケーションが成立することとは別である、と言うと反論が返ってこない。

 外国語に右往左往する日本の教育界

 思いこみ、感情的に教育が論じられていないだろうか。

 インテグレーションIntegration   メインストリーミングmainstream インクルージョンinclusion   とさまざまなカタカナ文字が飛び交ってきたが、なにかこのようなことばには、新しいものがあり従来の日本の教育と異なったものという傾向が強い。

 京都ろう学校幼稚部では、インテグレーションということばではなく、対応教育ということばを使っていた。
 対応とは、普通教育に対応出来るという意味であったことはすでに紹介した。

 日本語には、表音・表意の意味合いが含まれているためその概念の意味は日本語文化圏では捉えられる。
 ところが、インテグレーションとなるとさまざまな解釈が受け取る側に浮かぶので、その概念はさまざまになる。

 インテグレーションの意味合いを1960年後半から調べた先生たちは、アメリカに於いて黒人が白人社会の教育に統合することから使い始められていることを知って愕然とした。
 黒人が、白人社会に適応する。

 人種差別的な色合いが濃厚なこのことばが、障害児教育に導入されてきたからである。

 では、メインストリーミングmainstream インクルージョンinclusion の概念は日本の教育界で十分吟味されてきたのかという問題がでてくる。


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2014年1月8日水曜日

インテグレーション  ろう学校の学部間の対立をなくそうという動きが



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 7 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
                     1974年4月28日


  学部間のワクをとる第一歩がはじまったが

 日頃、幼稚部で、普通小学校入学をめざしおこなわれる教育体制の中で、矛盾や疑問をかかえて苦しむの若い教師と大部分が、普通小学校へ出ていった後に残されたわずかな子どもたちに発達に必要な集団が保障できないと悩む小学部の教師がはじめて共通の課題にとりくんだ。

 学部のワクをこえて教師が自由に教育などについて意見を交換する基礎ができた。
 若い教師たちは、土曜日のとりくみ以外に週一回、反省と計画のために集まった。教室も毎週、幼稚部、小学部の棟と教室をかえて話し合った。

 他学部の教師が共に教室で集まって討議をするのは今までにないことで、学部間のワクをとる第一歩となった。

  教師の動きと親の動きが共鳴

 小学部では、「聞こえの教室をつくる取り組み」に参加した教師が、小学部の部会で「聞こえの教室をつくる取り組みの問題」を提起してた。
 そのため聞こえの教室をつくる取り組みが、常に小学部全体の認識としてすすめていくことができるようになってきた。
 その結果、中心メンバーではないが関心を持つ教師を数人まきこんで聴覚障害児への実際の指導に取り組んでいくことができた。

 このような教師集団の動きは、親集団にも大きな影響を与えた。

 「聞こえの教室をつくる取り組み」に
                ろう学校の親は反対していたが


 「まず小学部の子どもを十分に見てほしい。なぜ、他の学校に行った子どもまで……」と言う声が強かった。

 しかし、「聞こえの教室をつくる取り組み」への教師の姿勢を見ているうちに、教師が聞こえの教室問題に取り組んで力量を高め学んでいくことが、自分の子どもの成長につながることを親自身が気づきはじめた。

 小学部では、今まで限られた集団しかなかったが「聞こえの教室をつくる取り組み」の中で普通校に行った聴覚障害の生徒と交流し、仲間が広がったげた、ということが親の大きな喜びとなっていった。
 そして、親の中では、ろう学校の小学部だけではなく、「聞こえの教室をつくる取り組み」は自分たちのこととしても支持・協力していかなければならないという考えが広がった。

 教師が身についていたとは言えない
     集団的に協議するスタイル

 幼稚部では、なるべくインテグレーと母の子供の問題に触れたくないというものがあった。

 それをうち破って積極的にインテグレーションの問題を探り、毎日の言語指導が何のためにあるのかを考えていこうとする教師が増えていった。
 しかし、それは幼稚部全体の共通認識になるまでには小学部と違い十分な部会討議がされず、あくまでも有志参加に終わってしまっていた。


 幼稚部の民主主義的運営の課題が残った。

 聴覚障害児に対する教材研究を、幼稚部、小学部の教師の協同学習の場となり、教育指導を高めていくいくこと共通の取り組みとして計画されていた。

 しかし、1つ1つの教材について十分協議する余裕がなかった。
 そういう点ではまだまだ本当に集団的に協議するスタイルをそれぞれの教師が身についていたとは言えない状況であった。

 色々な角度からの見方、色々な発達段階の子どもを扱う経験から、お互いに学び合うものは非常に大きかったが。

 さらに今後、自分たちの現場でぶつかった問題を教師だけで解決するのではなく、教師全体に提起することによって、より広い立場で物事が見れるようになることの大切さを痛感した。

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2014年1月6日月曜日

インテグレーション  共通の認識と見通しをつくり出さなければ


   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 6 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
                     1974年4月28日

 親も変わり 聴覚障害児も変わってきたが

 各学校で、ひとりひとりになっていた聴覚障害児が、1週間に1回集まり、聴覚障害児同士の仲間が集まる場をつくる。

 聴覚障害児集団が形成され、自分の言いたいことや友だちを気遣うことや自分の独りよがりな思いを他の聴覚障害児に指摘される中で子どもたちは大きくそだっていった。
 親が変わり、親の集団が行動を起こす。聴覚障害児が変わり、聴覚障害児同士の友だちが出来る。
 この変化の中でろう学校の教師集団は、親や子どもたちのように素直に受けとめることは出来ないでいた。

 ろう学校においては
各部間の教師の交流は極めて少なく 教育実践も違う


 教育という営みは、子どもの発達の時期の間に限られて行うものではなく、幼児期から青年期、さらに死ぬまで一生の人格形成を見通したものでなければならない。
 それぞれの時期の教育に関わるそれぞれの教師集団に一貫した発達観・教育観の下で共同の討議が必要である。

 今までのろう学校においては、各部間の教師の交流は極めて少なく、子どもに対する教育実践も違うという同じ学校の中でありながら一貫したろう児の発達の見通しについての論議がされてこなかった。
 その結果、各部の教師の間には、無関心、不信ムードが広がっていた。
 そういう状況の中で幼稚部のインテグレーションが進行していたことが大きな問題である。
 というのは、ろう学校全体の教師が信頼の絆で結ばれながら聴覚障害児にとってよりよき教育環境を要求してつくりあげていくという体制ではないから、それよりは、いくら保障が不十分でも、普通小学校で得られる言語環境に期待した方がましだという考え方があった。

  「脱ろう学校化」とインテグレーション

まずろう学校の教育の充実や教師集団が教育の力を高めていくことを問題にせず、現在あるものの中にに適応できるところに進ませるという、現在肯定論であり、本当に積極的な意味を持った統合の是非の論議はなかった。

 いわば、「脱ろう学校化」ということがインテグレーションがすりかえられていたのである。
 インテグレーションが単なる「適応」を超えた「変革」の方向を持っているものであるならば、今までのインテグレーション=脱ろう学校化の矛盾をあばきださなければならない。

 そのためには幼稚部・小学部の教師集団は、インテグレーションの問題について共通の認識と見通しをつくり出さなければならない。

 幼稚部・小学部の教師集団は、どうしても共同で幼稚部卒業生のインテグレート後の問題に取り組む必要があったのである。
  
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2013年12月6日金曜日

インテグレーション  子どもが笑顔を取り戻す教育

 
 
   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 5 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


            お互いよそよそしい関係

 話し合いは、親の家で行われた。
 話し合いの時間がかかるので、親は、聴覚障害の子を連れて集まっていた。
 ろう学校幼稚部の先生は、親の話に参加する一方で手分けをして子どもたちと時間を過ごすようにした。

 ところが、ろう学校にいた頃は、子どもたちはまとまって遊んでいたのに、それぞれ違った小学校に入ったことでお互いよそよそしい関係になって、話し合うこともしなかった。

 幼稚部の子どもたちは自分たち同士で遊ぶ。

 普通小学校に行った子どもたちは、幼稚部時代と違ってまったく知らんぷり。
 めいめいが、自分だけの世界に入り込んでいるようだった。特に親しかった子ども同士でも。

 幼稚部の先生たちは、まずそのことに驚いた。
 

  花いちもんめ が知らせてくれた

 
 そこで、先生たちは親の話しの合間に子どもたちを二手に分けて遊ぶ「花いちもんめ」の遊びをすることを子どもたちに提案した。

 子どもたちは、賛成したが、
 

 「か~ってうれしいはないちもんめ」
 「まけ~てくやしいはないちもんめ」。
 「あの子が欲しい」
 「 あの子じゃわからん」

 はじめのうちは歌はそろわない。

 あの子が欲しい、とこの子が欲しいと、言うことがなかなか出来なかった。


  自分の気持ちを相手に伝える
        相手の気持ちを受けとめる

 ようするに子たちは、自分の気持ちを相手に伝える、相手の気持ちを受けとめることができなかったのである。

 粘り強く「はないちもんめ」を繰り返していくと、次第に子どもたちの声がそろい、歌と足拍手、が合うようになり、子どもたちの喜びの輪が広がっていった。

 さらに「イスとり遊び」「壁新聞づくり」などをする中で、聴覚障害の子どもたち同士の思いやりや助け合いが生まれだしてきた。
 そして、そういう取り組みをするために中心になって聴覚障害の子どもたちに呼びかけ、遊びの輪の中に入れるようにする子どもも出て来た。

 いつしか、各学校にバラバラに通っていた聴覚障害の子どもたちが、1週間に一度集まり、話したり、遊んだりするようになって行った。

  どうしても必要   聴覚障害児の子どもたち同士の友だち


 この取り組みに参加していたろう学校幼稚部の先生の中から、聴覚障害の子どもたちは、ひとりぼっち、では自分の気持ちを出すことはできないばかりか相手の気持ちを受けとめられなくなってしまうことに気がついた。

 さらに、聴覚障害の子どもたちには、健聴児の子どもたちの友だちも必要だが、聴覚障害児の子どもたち同士の友だちがどうしても必要だ、と確信するようになっていった。

                                                            ( つづく )

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2013年12月5日木曜日

インテグレーション  一番大切なことをわすれてる


   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 4 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   経済的困窮がますますひどくなったが……

 ろう学校幼稚部の教育は、親の付き添いが絶対条件であった。

 経済的に困難を抱えている家庭では、両親が働いていてもどちらか一方が辞めざるを得なかった。
 そのためますます経済的困難にさらに経済的困難が追い打ちをかけたが、子どもたちのためにと必死になって生活してきた。


 小学校に入ると、なんとか時間がとれるのではないかと考えていた。
 でも、ろう学校幼稚部の先生のアフターがなくなるとどうなるのか、幼稚部の親も普通小学校に入学していた親も途方にくれる。

  困ったらいつでもというねがいが……

 困ったらいつでも相談できるところがほしい。

 そういう教育相談所設置願いを望むようになっていった。
 ところが、強固に京都市教育委員会から「設置ができない」と言われた。

 考えあぐねたあげく親の中から京都府下で行われている通級制の難聴学級(聴力の制限はなかった。)を作ってほしい、聞こえの教室を作って欲しい、と要求するようになっていった。

  くり返し、くり返し話し合う中で

 それでも京都市教育委員会は、話し合ってもかたくなに通級制の難聴学級の設置を受け入れなかった。
 聴覚障害児の親の中で何度も何度も話し合いが繰り返されてきた。

その話し合いの中で、

 普通小学校通っていると、発語がだんだん崩れてくる。


 発音指導なんとか京都市教育委員会のとしてやってもらいたい。

 でも、発音指導だけ子どもたちに保障してやればいいのだろうか。

 大きな集団の中に入れてやったことが、聴覚障害児にとって、良い言語環境と なっていると言い切れるだろうか。

 大きい集団に入って、健聴児の友だちが出来たら、聴覚障害児の友だちはもう いらないということになるのだろうか。

  何が一番大切で必要なことなのだろうか
   そのことが忘れられているのでは

 先生や友だちの話の20%ぐらいしか判読出来ないのに教科学習について行けていると言えるだろうか。

 ついていけない教科は、家庭で親がしたり、家庭教師を頼んだりしているのだが、それで良いのだろうか。

 受け入れ体制が充分でない場合は、子どもは学校の中やクラスの中にきちんと学校生活が出来ているとは言えないのではないか。

などなどの反芻した意見が聴覚障害児の親の中から出され、討論し合う中で本当に聴覚障害の自分の子どもにとって何が一番大切で必要なことなのだろうか、そのことが忘れられているのではないか、という話になっていった。

  子どもの眼に投影された 親の話し合いや行動が

 これらの話し合いは、聴覚障害児の親の家に集まって話し合われた。

 話し合いが夜遅くまでされ、ときには明け方4時ごろになることもしばしばあった。
 しかし、話し合えば話し合おうほど聴覚障害児の親の団結は強まり、さらに他の親の中に話が広がった。

 この親の取り組みは、その後の子どもたちや教師たちに大きな影響を与えた。

 真剣に自分のことを考えてくれている親。考えるだけでなく行動する親。
 

 聴覚障害児の子どもたちにも教師たちにもその姿が、次第に「見える存在」として映し出されていった。

                                                                                             ( つづく )


 

インテグレーション 教育はだれが責任を持つの



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 3 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 卒業後のアフタ-ケアの複雑ないきさつ

 1960年代末から1970年代にかけてろう学校幼稚部では、言語力を持ってもっと大きな集団である地域の普通小学校通学することで社会性を身につける手段としてとらえていた。

 かんじんな教科指導については親が責任を持つ。
 しかし、発音指導は、課題が残ったので「歪みや」「正しい発語」のため教師が何らかの形でアフターケアをするということになっていた。

 このアフターケアを良心的に行う教師。
 アフターケアーの名の下に金銭や物そのた教師の私生活に対する「親からのお礼」も横行していた。
 これらのことは、ろう学校ではタブーでありながら半ば公然と行われる「慣習」があり、新採用の教師は激しい憤りさえ感じていた。
 ところが、朱に交われば赤くなるというようにそれがあたりまえのような感覚に陥る雰囲気に次第に呑み込まれてしまう傾向も少なくなかった。

  進学先の学校の発音指導はしてはならないという現実

 さまざまないきさつから1973年3月からろう学校幼稚部卒業の子どもについては、進学先の学校の発音指導はしてはならないということになった。
 これはある意味では当然のことであった。


 責任の持つべき生徒たちでない生徒に対して、教育委員会の所管外の学校に教師が関わることは問題があったからである。

 現在、特別支援教育という名目で教育委員会の所管外の学校に教師が関わることが、公然と行われているが、その責任の所在はあいまいで、問題が生じる度に教師個人の責任とされ「自殺」に追い込まれていることがあまりにも多くなっている。

 制度はつくっても責任は持たない教育行政の姿勢は、現在に至っても改善されていないのである。

  難聴児教育相談所設置のねがい


 ろう学校幼稚部を卒業した生徒のほとんどは、京都市内であった。

 
 ところが、京都市教育委員会は、京都市内は固定制難聴学級を作っていた。
 ろう学校幼稚部から来た生徒は、固定制難聴学級でないと指導しないと京都市教育委員会は、頑固な方針であった。

 そのため各行政区に点在している小学校に入学している聴覚障害児は、アフターを受けることが全くできなくなった。

 そこで、聴覚障害児の親は、京都市教育委員会に「難聴児教育相談所設置」のねがいを出した。

 しかし、京都市教育委員会はそれをまったく受け付けなかった。
 今まで陳情や請願など行政にたして要求いた経験のない聴覚障害児の行動を起こした。
 

何も知りません、というのではあまりにも無責任

 その取り組みにろう学校幼稚部の教師たちも参加しはじめて行った。

 幼稚部を卒業したから私たちは、何も知りません、というのではあまりにも無責任だという気持ちからだった。

 聴覚障害児の親が、

 聴覚に障害を持ったわが子になんとか「ことば」を話させてやりたい、と幼稚部3年間を必死で朝・昼・晩もおかまいなしにはなしかけた。
 バスの中。
 買い物。
 どんな時にも、子どもに話しかけ、ことばを教え続けてきた。

 そんな気持ちを無にしていいのか、という気持ちがろう学校幼稚部の先生からうまれてきた。
                                                   ( つづく )


 

2013年11月26日火曜日

エリート インテグレーション 基準を作って切り捨てる動き


     ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 2 )
 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   聴覚障害児の親の血と涙と汗の要求

 ろう学校幼稚部を卒業して、普通校に入学した聴覚障害児は親が教科を教え、教師は集団になじませる、などなどのことはうまく出来るはずがない、ことは明らかだった。

 そのため普通校に入学した親は、自己責任ではなく多くの人々と一緒になって聴覚障害児の教育保障を要求した。

 京都府教育委員会は、各市町村教育委員会と協議して通級制の難聴学級。
 すなわち「聞こえの教室」(難聴学級と言わなかった。高度難聴の子どもも通級するという考えであったからである。)をつくり、定期的にそこへ聴覚障害児が通ったり、必要に応じて常時相談体制をつくるようにした。

 同時期、「ことばの教室」もつくられていた。

 聴覚障害児の在籍する学校は、広域なので一校につくると他の聴覚障害児がなんの保障も受けられないという状況の中で考えられたものであった。

 だが、聴覚障害児の多くは京都市内の学校に入学していた。
 ここでは、京都府立学校と京都市立学校、学校市町村学校という教育委員会との管轄の問題があった。

 京都府教育委員会と京都市教育委員会は、京都市が政令指定都市という関係で同格の権限を持っていた。

 
  京都府教育委員会と京都市教育委員会の違い


 京都のとなりの府。大阪府も大阪市も同様のことがあったが、大阪府立ろう学校と大阪市立ろう学校をつくっていた。

 しかし、京都の場合は、歴史的経過の中で京都府立ろう学校だけしかつくられていなかった。
 

 京都市は、この問題に対応すべく固定制の難聴学級をつくった。

 固定制の難聴学級と通級制の聞こえの教室の大きな違いは、固定制の難聴学級の場合は地元の小学校に入学せず難聴学級のある学校に入学しなければならないが、通級制の「聞こえの教室」は、地元の学校に入学して必要に応じて「聞こえの教室」に通ったり、援助(サポート)を受けるという違いがあった。

 聴覚障害児への線引きと分断

 さらに京都市教育員会は、固定制難聴学級入級基準を中度とし、その㏈まで定め、軽度・中度は難聴とするが「ろう」は、難聴ではないので入級できないとした。
 この㏈値をめぐる問題は書けば切りがないほど経過がある。

 軽度・中度・高度(重度)というのはあくまでも区分であってそれに対して、善悪や優劣の評価を加えることは、別の問題であるが、日本ではこのことが混合されて理解されていることもある。

 当時、聴覚障害児教育に携わる教師たちの中には、聴覚障害についてかなり専門的な研究や実践経験を持っていたため5㏈や10㏈の違いで線引きすることは非科学的なものであることを充分承知していた。

 京都市教育委員会は、肢体不自由養護学校入学基準でもIQで線引きしていた。
 
 数値的線引き・基準との闘い


 このことに対して親の中には多くの疑問や改善を求める声があったが、「基準」は基準として京都市教育委委員会は変更しようとはしなかった。

 1960年代から1970年代にかけては、障害児教育の分野において、数値的線引き・基準との闘いも大きな課題であり、それを乗り越えていくだけの力量が求められた。

 現在、その基準なるものの再来が教育の分野に持ち込まれていることを考えると教育の歴史に対する逆流とも言える。

 1960年代から1970年代にかけての血と涙と汗にまみれた公的保障が蔑ろにされてはならない。

                                                  ( つづく )
 

2013年11月23日土曜日

エリート インテグレーション 教科を教えるのは親の責任



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  教科については親が責任 
  社会性を身につけることが小学校の教師の責任

 ろう学校幼稚部を卒業した子どもたちは、大きな集団である地域の普通小学校通学することで、社会性も見につき育てられるとされていた。

 教科については親が責任を持ち、学校は友だち関係の中で育つようにする。
 さらに、社会性を身につけることが小学校の教師の責任とされ、ろう学校幼稚部ではその課題を任せていた。


   どちらかが仕事を辞めざるを得なかった

 ここでは、親の経済力はまったく考えられていないばかりか家庭環境も考えられていなかった。

 経済的に困難な親は、5歳までに聴覚障害のわが子に教育をしないと一生子どもが困ることになる。
 聴覚に障害があると分かってあらゆる所をまわったが、結局幼稚部にすがるしかなかった。

 親同伴の幼稚部教育では、両親が働いていた家庭ではどちらかが仕事を辞めざるを得なかった。それは、また経済的な困窮を生みだしていった。
 ほとんどの家庭では、母親が仕事を辞めていた。


  お父さんが幼稚部に付き添い
      休みの日には単身外国に行き商売


 



6年ほど前、N県のお父さんとたまたま別のことを話していて、娘さんが聴覚障害があったので幼稚部に通うときに、お母さんが仕事を辞めるか、お父さんが仕事を辞めるかの深刻な話しになった。

 結局、お母さんは、資格を持っていてお母さんのほうが収入が多かったので、お父さんが仕事を辞めて幼稚部に付き添った。

 そして、夏休みなどを利用して単身外国に行きある品物を買って販売する仕事をはじめたという。

 「低開発国」と言われる国に行って、話が充分分からないまま仕事をはじめていたが、「物乞い」をする子どもたちが、家族を支えているために働いていることが理解出来るようになった。

 さらに、その子どもたちの中に多くの障害児がいることも。
 彼らには、いじめはなく、どんなに貧しくても助け合っていることが分かって胸が熱くなった。
 当然、自分の子どもと同じような聴覚障害の子どももいた。


 仕事を辞めて新しい世界に飛び込んで、日本と「低開発国」と言われている国々の教育を考えるようになった、と話された。
 

  裕福な家庭との違いが子どもに現れていたが

 裕福な家庭は、子どもに家庭教師をつけ予習、復習をさせていたが、経済的に困難を抱える家庭では、とてもそんなことは出来なかった。

 当然、普通校の中で学ぶ聴覚障害児の子どもたちに差が出てきた。

 
 もともと、教科は学校ではなく家庭でするということ自体矛盾がありすぎた。

 しかし、ろう学校幼稚部では、普通校に行った生徒には、何らかの形でアフターケアをするということになっていた。
 このアフターケアを良心的に行う教師と「付け届けなど」を当然とする教師があったが、それは決して表面化しないタブーであった。


 ところが、1973年3月に卒業するよう幼稚部生徒に対して、ろう学校では進学先の小学校の発音指導はしてはならないということが突然出されてきた。

                                                            ( つづく )

2013年11月20日水曜日

エリート インテグレーション への教師からの疑問



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  京都府立ろう学校が、幼稚部生徒を普通校に入学させるといういわゆるインテグレーションは、1966年から実行されていたが、1969年に文部省は協力者会議でインテグレーションの問題を取りあげる。

 しかし、このインテグレーションの紹介は、今日のように大々的に報道したり、核マスコミも大きく取りあげるようなものではなかった。


   教育は、不当な支配に服することなく
                    国民全体に対し直接に責任を負う


 それは、当時の教育行政が教育基本法の第10条を守らなければならないという制約があったからである。

教育基本法
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。


2006年改正
 (教育行政)
第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2  国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3  地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4  国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。


   各学校の実践が重んじられていた

 そのため文部省や各都道府県教育委員会は、文部省の方針に沿った教育をさかんに奨励しその取り組みを広げた。

 京都府立ろう学校幼稚部が取り組んだインテグレーションは、京都府教育委員会の意向とは関係なくすすめられていた。各学校の実践が重んじられていたからである。
 それは教育基本法から考えても当然のことであった。

 この時期でよく誤解されて理解されているのは、1970年代に入って京都府教育委員会委員長をめぐる京都府と文部省との対立から京都府教育委員会と文部省はもともと対立関係にあったと考えられていることがある。
 しかし、ろう学校幼稚部でインテグレーシュンが行われた時期は、決してそういう関係ではなかった。

 むしろ、京都市委員会の方が文部省路線を踏襲していた。この矛盾は、さまざまな所で生じる。
 分かりやすく書くと、京都府教育委員会は、各市町村教育委員会に助言等はできた。しかし、京都市が特別政令都市であったため京都市教育委員会とは同格であった。


  ろう学校幼稚部の教師から ひろがりはじめた疑問

 1970年になって、ろう学校幼稚部の教師の中にインテグレーションについて、次第に疑問が出てきた。

 すでに述べてきた京都方式と呼ばれる「対応教育」が一定の成果を収めていると言われていることに対して、それはアメリカの行動主義的発達観の色合いが濃く、子どもたちの集団の発達を考えていない。

 個人の能力のみをとらえ、子ども「のび」は、その子ども1人1人、親一人一人、教師一人一人の力量にのみにされている。

 ことなどに、多くの疑問が出てきた。

 しかし、その疑問を出すことすらかなわない学校の状況の中で幼稚部の方針が強固におしすすめられ、ともかく聴覚障害児が普通小学校へ出ることのみが目的になってしまっていた。

 それがインテグレーションとされた。

 ところが、このことをめぐって教師と親が真剣に相談し行動する事態が生じてきた。
                                   ( つづく )


 

2013年11月16日土曜日

エリート インテグレーション 現代と変化していない無責任論

 
 ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   子どもの努力と家族の努力+教師の努力の追求

 2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。

 3歳で、ひらがなが読めるように。

 4歳で、日本語の単音の発音を完了する。

 このことを集中的に指導された子どもには「ついてゆけなく」なる子どもがいる。
 この子どもたちは、子どもの努力と家族の努力が責任として問われる。


 小学校に入学して以降は、子どもの努力と家族の努力+教師の努力が責任として問う。
 幼児期の取り組みが終わったのだからとして。


  責任押しつけ 責任逃れの教育

 小学校は、なんとか聴覚障害児の教育に取り組み、幼児教育からの責任追求を逃れて、中学校に「下駄を預ける。」

 中学校は、小学校からの責任追求を免れ、高校になんとか入学させようとし、入学したら高校の責任「追求」する。

 ところが、高校は義務教育でないので原級留置や退学がある。

 ろう学校幼稚部を卒業した親はその間で揺れ動く。

 一方、「おとなしくていい子」でない子どもたちは、小学校段階から親の言っている事や自分への「しつけ」に疑問を持ちはじめ、健聴の子どもとのあまりにも大きな「違い」に気がつきはじめる。
 

  こんなしんどい目をするのやったら


  そして言う。

 「なんでお母さんは、ことばことばを言うのや」

 「こんなしんどい目をするのやったら聞こえる子どものようにならなくてもいい。」

 「ほっといて」

などなど、急激に親に対する「反発」が強くなり「悲劇が拡大」していく。

  従順な子どもがインテグレーションの成功例?

 そういう子どもは、インテグレーションできない子どもである、とされ、はい、はい、と「素直に従う子ども」がいることを例にあげて「インテグレーションの成功例」とされる。

 そして、なんの「保障」もなしに、有名大学に入り成績優秀な聴覚障害生徒として評価される。

 次世代の親には、インテグレーションの成功例を示し、失敗しないためには幼稚部教育のカリキュラムをすべてやり遂げることを強調する。

 ここには、育っていった生徒たちから学んで「幼稚部教育のカリキュラム」を見直し、さらに適切なものにしていこうという姿勢はなかった。
 

  何もしなくてよい良い やりたいことをする自由?

 すでに述べた最近、発達障害児の教育指導等をめぐって、一部で子どもたちに、何もしなくてよい良い、やりたいことをする自由、ただ、他人のじゃまをしない節度、の中で子ども自身が育つかのように強調する傾向と対比すると、どちらも子どもたちの内面の発達を見ていないことがわかる。

 ろう教育から引用した「9歳の壁」をとりあげ、9歳の問題を主張する人々もまた子どもの内面を見ていないのである。

 なぜなら、子どもたちを年齢別に見る傾向も、幼稚部・小学校・中学校・高校・大学・社会と見る傾向も人間を分割・細分化して見ているに過ぎないからである。

 人間が産まれてから死ぬまでの過程を踏まえて、重点的に学校教育や年齢を踏まえた主張ではない。
 

  ○○○だから○○○しなければいけない


 そもそも
  2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。
 3歳で、ひらがなが読めるように。
 4歳で、日本語の単音の発音を完了する。


 を子どもたちに「教える(注入する)」ことが、人間の摂理にかなった教育なのか、どうか、すら検討されもしないで「9歳の壁」ということばがひとり歩きさせられている。

  2歳が、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして、とまで話せること自体が「非常識」なのである。

 このような超天才教育と言うべき理屈がまかり通るのは、「聴覚障害」があるからということである。

 聴覚障害だけではなく、いろいろな障害がある場合、○○○だから○○○しなければいけない、ということもまかり通っていないだろうか。

 障害児教育分野では、人間としての常識からはじまる教育が、人間としての非常識からはじめる教育に打ち負かされることがしばしばある。

                                                     ( つづく )
 

2013年11月14日木曜日

エリート インテグレーション 無責任な教育システム



  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   人間の発達や教育をめぐる二つの潮流

 人間の発達や教育を考えた場合、二つの潮流がある。
 

 ひとつは、人間は外からの働きかけで(教育で)育つ。
 


 ふたつは、人間は、人間は本来持っている力で育つ。
 

 というふたつだろう。

 詰め込めば詰め込むほど子どもたちは学ぶのか

 前者は、すでに明らかにしてきたろう学校幼稚部の「対応教育」である。


 小学校入学までにことばや文字を習得しておいて、小学校入学以降はことばの世界に入って普通児と同じように育っていく。

 そのために早期教育は、絶対欠かせないものであり、5歳児までが勝負になるという考えである。
 
 厳密に言えば、これは5歳児までは外から徹底的に詰め込んでおいて、6歳児以降は、本人自身で育つということになるかも知れない。

 そうね、そうねと言うだけで子どもたちは学ぶのか

 ふたつ目の傾向は、ひとつ目の人間は外からの働きかけで(教育で)育つ、という考えを「つめこみ」「子どもの否定」などとして「あるがままに育つ子ども」をあたたかく見守るなどとする傾向である。

 そして「子どものここによりそい」とか「ともに共感して、その子のこころを認めてあげる」などを言う。

 そう言いながら、何もしないのかと思えば、カウンセリングや教育相談として保護者から少なくないお金を受け取る。
 これでは、詐欺ではないか、という意見も出てきている。

 これらの二つの潮流は、子どもたちの発達を考えているようで考えていない。

 無責任ということが
     はやり言葉カタカナ表記で惑わされる

 はやり言葉で生徒の心に寄り添って、ということばがしばしば使われるが、男の先生が女の生徒に寄りそう、女の先生が男の生徒に寄りそう、ということを想定すればここには奇妙な問題が内在することになる。

 このことを指摘すれば、そういう風にとる人たちの考えに問題があるのだという怒りの声が返ってくるが、はたしてそういう人々は「寄りそう」という日本語の意味を理解しているのか疑問になる。

  子どもたちの事を考えているようで
      子どもの発達や教育の可能性を奪う


 

教育は、子どもたちを教えれば教えるほど効果をあげるものだろうか。

 教育は、子どもたちを放置して自然にしておけば育つのだろううか。

 高度に発達した現代社会に於いて、子どもたちの事を考えているようで、子どもを決めつけ、断定し、子どもの発達や教育の可能性を奪う主張が新たな装いをこらして横行しているようである。

 温故知新。
 1960年代中頃から1970年代にかけての聴覚障害児の早期教育と言われたことを紹介しているが、これは「過去」の問題ではなく、現在の問題であるとも言える。

 もっと言えば、過去の教育実践の蓄積を脇に置いて居るがゆえん、同じ過ちをくり返しているように思える。

 無責任。

 M君が「三無主義」に飛びついた時に、教育が無責任状態にさせられている、とも言ったように思えた。
                        ( つづく )

 

2013年11月6日水曜日

エリート インテグレーション 無関心の養成



( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 8 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 2歳からの「言葉の洪水」。
 京都ろう学校幼稚部では、先に挙げた理屈と実際の指導が次第に局限していく。

 いわゆる「たくさんのマッチ箱」論である。

   ことばを「マッチ箱」から引き出す?

 ようは、小学校入学まで「ことばのマッチ箱」をたくさんつくっておけばおくほど、聴覚障害児たちは「ことばのマッチ箱」から必要な「ことば」を出して話しに対応できるようになる。

 その「マッチ箱」が少なければ、ことばについて行けなくなり「小学校生活」が過ごせなくなる。

 その例が「9歳の壁」として主張されてきたのであり、「9歳の壁をのりこえ」られないのは、「ことばのマッチ箱」の少ない子どもだと言うことであった。

 
 すなわち、「9歳の壁」問題は、インテグレーシュンの失敗を引き起こした「劣等な子ども」たちにあり、「優秀な子どもたち」は、「9歳の壁」など生じないとしたのである。

 ここで、インテグレーシュンした生徒の優劣が決まるとされたのである。
 

  劣等生をふるい分ける意味としての「9歳の壁」


 このような重大な問題を含んだ「9歳の壁」ということばを、その内容を吟味することなく「ろう学校で出されてきた9歳の壁問題」として、今だ、論じる人がいるのは極めて残念なことである。

  「劣等な子どもたち」は、ここでふるい落とされる。

 そこには、人間の思考やことばといったものが多くのことばの箱に詰められたものであり、必要に応じてそのことばの箱からことばを取り出す、という機能になっていることへの科学的検証は、まったくない。

 むしろ、ことばを教えると言うことを口実にして人間を機械化して、周辺に「対応」できる人間を造ろうとしていたと言っても言いすぎではないように思う。

 
  喜びと感動をともなう「ことば」


無関心。

 当時、G君の言う「無関心」には、否定できないものがあった。

 諸説あるが、ヘレンケラーが「水=WATER」が解ったときは、それまで彼女に「入力」されていた指文字のサイン「W・A・T・E・R」が、水というものにふれることによって、その感覚と文字が重なり、「WATER」という一つの単語の意味が理解出来たという感動があったと思われる。

 でも、G君たちは、幼児期から遠足に行ってもことば漬けで、興味関心や不可思議さなどを一切味わうことがさせられなかったのである。

 「もみじ」 「あかい」
  「赤いもみじ」

 「きいろ」  「きいろいもみじ」

 こんな遠足は、子どもの心を感動で揺さぶっただろうか。
 ことばを覚えたことで、感動はななかった、とG君は振り返っていた。

 G君には「悪い生徒」とのレッテルが貼られた。

 素直、何でもよく聞き、覚える子が、インテグレーシュンの優等生だった。

 だが、このインテグレーションの優等生が、それまでの教えに疑問を持った時期が来るが、それが遅ければ遅いほど、そのブレは強烈になり続ける。

 ことばを覚えることに喜びと感動を。
           
                          ( つづく )

 

2013年11月4日月曜日

エリート インテグレーション 無気力の養成


  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 7 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育

 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

                 無気力・無関心・無責任

  1970年代に入って三無主義という言葉が流行した。

 無気力・無関心・無責任。
 の三つである。
 このことに一番共感した聴覚障害生がすでにブログで述べたG君の話であった。
 彼は、幼稚部教育の矛盾と問題と人格形成に与えた影響について「見事に行動で示してくれた。」
 

猛獣のような生徒と言われた
    聴覚障害生徒の大波の向こう


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http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_4844.html
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   今になって私はそう思える

  G君は、次のような事を書いた。

 私は京都ろう学校の幼稚部へ入学するまでは何一つおぼえていませんが、幼稚部へ入学してから中学1年まで、ろう学校の生活を送った。
 その生活の中でもいろいろと感動を味わった。
 私は同級生の中でも勉強の方は誰にも負けませんでした。
 授業に入るたびに先生が説明する前にも今日の勉強は何をするかは始めからわかっていたから。

 それは不思議と思っていたが、あとでわかったのは、私のお母さんが、私が耳がわるいとわかっていてその上に、お母さんまで中途難聴になったショックから、出来れば自分の息子だけでも不幸な世の中に送ってほしくないと思いながら、幼稚部に入ってから私への口話訓練をほかの人よりも倍にしこんでいたからだった。
 小学部からは、復習に予習に毎晩のように厳しくしこんでいたおかげであった。
 残念なことには、私のお母さんは、口話訓練についても、ほかの普通の人と同じように出来なかった……。

 というのは、お母さんが中途難聴のため、自分の息子のことばの声が聞きとれないためでもあったと思うし、その時、お母さんはくやしい思いをしたはずだと今になって私はそう思えるようになった。
 でも当時の私は、勉強がよく出来るといってじまんしていたわけでもなかった。

と。

 今になって私はそう思えるようになった……と考えるまで多くの問題と荒波があった。
 このことから、青年期から成人期にかけての聴覚障害者は、自らの過去を振り返り、回復する力を持っているので、乳幼児期より難しくない、とする意見がある。でも決してそうではない。

 

  三つ子の精(たましい)死ぬまでも

 三つ子の精(たましい)死ぬまでも、という昔からの教えがあるように、乳幼児期に得られたものはその子の人生を左右すると言っても過言でもない。

 では、すべてそうなるのか、となるとそうではない。
 必要なときに必要な示唆が得られるようになると人間は回復するものである。

 そこに人間の人間たる素晴らしさがあるのだ。


 G君が「今になって私はそう思えるようになった」と懐の広い考えに到達するまでには長い時間と葛藤があった。
 彼と同じ幼児期を過ごした聴覚障害者には犯罪を犯すものも少なくなかった。

 だが、彼はそうまでにならなかったのはなぜか、を解明するつもりはない。
 彼自身の文章の中にそのことが織り籠められているからである。

      つくられた無気力

 ここで、G君が三無主義という流行に飛びついたのはなぜであろうか、を乳幼児期の教育との関係で少し明らかにしておきたい。

  無気力
 

 通常子どもたちはことばを覚え、言葉に関心を持ち始め、コミニケーションという交通手段を獲得していていく場合は、喜びや感動がある。
 あ、からあー、ああ、ああー、あん、あんと変化して子どもが言葉を発するときに
それを受けとめる側は声を発したことを喜び、あ、は何のことをいっているか考える。

 すべてが、あーであってもそれが喜びを持って迎えられるのである。
 そして、それが、まんま、と言っても必ずしもご飯のことを言っているのではないことも解りつつ「まんま」を受けとめる。

 そういう環境の中で、「まんま」は次第に分化して、「ご飯」のことを意味したり、「まま」とお母さんのことを意味したりするようになって行く。

  気持ちの交流が広がり 言葉も広がっていく

 ここにおける言葉のやりとりは、意味のないものの中に意味をたしかめるものであり、その中で分化する意味を子どもも受けても知って行く。
 

 そして、言葉を通じて気持ちの交流が広がり、言葉も広がっていくのである。

 子どもと回りの育ち合い、育つことの喜びがここには溢れている。
 

 だが、言葉の分化を先に教え込まれたらどうなるだろうか。

 「まんま」は、だめ「ご飯」

 「まんま」は、だめ「まま」

と。
 

 耳の不自由な子どもは、ほっておいたら間違った言葉を覚えてしまい、後々、大人になってもその言葉が正しいと思って使う。
 だから聞こえる子どもよりも先に、「キチンとしたことば」を教えておかないと大変なことになる。

 何か、説得力があるようで、疑問が残りつつ教師に力説されたとおり子どもに「ことば」を教えてきた。

 その結果が、G君を「無気力」と言う言葉が引き寄せた。
                                                      ( つづく )


 

2013年10月29日火曜日

エリート インテグレーション の養成



  ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 7 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  普通教育・普通学校 
 通常教育・通常学校 のまったく異なった内容

  京都ろう学校幼稚部の対応教育によって、幼稚部から普通小学校に行った生徒の資料がある。

 ただ、この資料には他府県から幼稚部に入るため一時移動した生徒の数は含まれていない。

 1970年代になると聴覚障害児の母親は子どもと一緒になってろう学校近くに仮住まいして幼稚部に通い、地元の普通小学校に入学した。

 このこと事態は、大変問題を含むことであるが、今回はそれについては述べない。
 なお、特別支援教育や「発達障害児」の指導から文部科学省の通達や文章で「通常学級」「通常学校」という言葉が一斉に使われている。

 しかし、「通常」という言葉は教育法などの制度にはない。そのため普通学校、普通学級という従来の言葉を使って述べる。

  もっと重視を 普通教育という意味

 
  特に、普通教育という言葉を考えるとき、日本国憲法に「普通教育」という用語が使われていることを想起して欲しい。


 日本国憲法第26条第2項には、

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする」。
とされている。

 憲法で使われている「普通教育」という用語は、憲法の指導精神と深く結びついたものであり、そこには、戦前の教育に対する根本的な反省、普通教育概念に関する歴史的認識や明治以降の普通教育についての歴史認識等が含意されているからである。

 特に、盲聾教育は、戦前からの歴史があるが後に述べる社会生活・仕事に就くことと関連して重要な意味を持っている。

  40年を経過しても解ってくる幼稚部教育の課題

京都ろう学校幼稚部から普通小学校に入学した生徒の推移(かなり正確であるが、)

 1966年    3人(5人は小学部へ・のちに全員難聴学級や普通校へ)

 1967年  2人(6人は小学部へ・のちに4人は難聴学級や普通校へ)

  1968年    2人(10人は小学部へ)

  1969年  4人(6人は小学部へ)

  1970年  2人

  1971年  5人(1人は小学部へ、1人は他府県のろう学校へ)

  1972年  11人

  1973年  7人(4人は小学部へ)

 1974年  12人(1人は小学部へ)


 現在、幼稚部を卒業した生徒は、40代であるが、そのほとんどの人々のその後、どのような悩みや要求や生き方をしたのかが大筋解る。

 これは、京都の教師たちが学校間を越えて聴覚障害教育について学習・交流したためであるが、プライベートな問題を除いて幼稚部教育がその後の生徒たちに与えた影響が相対的に解ってきている。

                                                                           ( つづく )