教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
俺にとって
俺の生きがいに多大なる
影響を与えてくれたのが
聴障生だった。
今までの俺の甘えた人生に
真の生きる道を
与えてくれたのである。
聴障生はガンバッテ
四年間をつらぬいた
俺も四年間つらぬいた
聴障生が苦しみながら
かよった四年間
俺の四年間より
はるかに苦難の道だったろう。
聴障生と一緒に高校生活を送れたことをおおいに感謝いたします。
(卒業にあたって京都府立山城高校定時制の健聴生の感想文より)
わびしさとさびしさの漂う空気の中に
深い熱気があふれ
1975年年三月一日
午後六時・京都市内の北部・大将軍にある京都府立山城高校の体育館に定時制の仲間が集まってきた。
あるものは華やかな衣装を身にまとい、あるものはジーパン姿で、そしてあるものは仕事を終えてきたそのままの姿、作業服のままで。
その日の午前1000名以上の生徒と保護者が集まり、盛大に行なわれた全日制の卒業式と対照的に、わずか200名程の生徒と父母と教師が集まる定時制の卒業式。
一見、わびしさとさびしさの漂う空気の中に、深い熱気があふれていた。
四年間。
この長いようで短かかった生活。
労働にいそしみ、学び続けてきた定時制の生徒の新たな出発点ー卒業式。
この日は、彼等にとって、何ごとにも換えがたい大切な日であると同時に、山城高校の教育の歴史の一ぺージをかざる聴覚障害児教育の第一段階が終わることになる。
見たところ誰が聴障生かわかりませんでした ある日
「昭和四六(1971)年四月、私達を迎えた山城定時制の内部は、ほんの少し前の年と違っていたそうです。
京都ではじめて聴障生を受け入れるための高校として歩きだそうとしていたからです。
私達卒業生のなかに六人の聴障生がいます。
わが友は入学当時を想いだして、
『見たところ誰が聴障生かわかりませんでした。ある日、声をかけたのです。でも、ちゃんと答えてくれません。あ、私の言っていることが聞こえないんだわ』
と書いています。
聴障生の友は、
『普通の人達と仲良く勉強していけるだろうか、授業についていけるのだろうかと思いながら友の顔を不安な気持で黙ってながめていた』
と。
同情的だった一年生の頃、手話や書くことに積極的だったクラスの空気も同情だけで、彼等と話し合えないことを感じていた様です。
一年生の文化祭にはコーラスしかだしものがなくて、彼らも一緒に舞台にあがり、ならんで口を開けていたものです。
親しみと心のふれあいの
難かしさを感じるよい機会であった
聴障生に対してクラスは親切とは言えないかもしれません。
だけど、聴障生を特別に扱わなくてもよいという思いは、四年間のクラスの状態を見ていればわかります。
言葉のない会話でいろんなハプニソグがありました。
お互いに言いたいことが理解できなくて、泣いた日も悩んだ日もありました。
けれど、それはクラスメートとしての親しみと心のふれあいの難かしさを感じるよい機会であったとも思います。
定時制高校の理想とする授業のあり方を
けれども、聴障生を受け入れる学校としての準備、設備に対して私達は少なからず不満を感じています。
一人は、
『授業に対してわかりやすいのと、わかりにくい授業の差が激しい。
積極的に私達が理解できる様な授業の仕方を研究していただきたい』
と言います。
このことは、聴障生を受け入れる学校というのでなく、定時制高校の理想とする授業のあり方を意味していると思います。……」
(京都府立山城高等学校定時制第二七回蘂告答辞より)
卒業生の答辞を聞く教師、父母の胸の中には四年前のこと、そしてこの四年間のことが飛びかっていた。
この喜ばしい日に、私たちは、次のステップを実行しなければならなかった。
以下参照参照
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