教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
てんで見当がつかなかったのが正直なところ
「身障者の高校進学を保障しようという府教委の方針のもとにすすめられたのであるが、理念は理念としても、実際はどのようなことになるのか、少なくとも学校現場の者には、てんで見当がつかなかったのが正直なところである。
自信が持てなくて、どうして引き受けられるか、行政の充分な保障がなくてどうして受け入れられるか等々、私どもの気持は容易に決定しなかったことも事実である」
と、1972年に「山城高校聴覚障害教育のとりくみ、山城高校校長のことば」として、校長は率直な意見を書いている。
校長が先頭切って授業をはじめた
そのわずか2,3年後に生徒たちが大きく変わってきて、新しい学びをはじめたのである。
だから、その事実を校長は受けとめていた。
校長になって教室で教えることがほとんどなかった。
しかし、自分の教科である国語の先生が都合で休まざるを得ない時に自ら申し出て聴覚障害生徒の授業を受け持ったりした。
退職後、神戸の大学で教えることになった校長は、いつまでも山城高校の聴覚障害教育を案じていた。
一年すぎるころ次第に「冷たく」なってきて不満
1975年3月に卒業した聴覚障害生徒は、四年間をふり返り、次のような感想を述べた。
「当初入学した頃は、クラスの健聴生は聴障生に対して非常に『親切』にしてくれてうれしかった。
でも、一年すぎるころ次第に『冷たく』なってきて不満だった。
つきはなされた感じで学校も楽しくなく、聴障生のみで話すことの多い日が続いた。
けれど、文化祭などクラス全体の取り組みの中で、健聴生と言い争ったり、ケンカや対立が生まれたりする中で互いげ気持がわかってきた。
ああ甘えていたんだ、健聴生に対して……。
このことがわかり始めたら、真に互いに友人として信頼し、なんでも言えるようになってきた」。
しばらくすると、彼等は自分達の苦しみや生活と
「同じ」だと知って、同情すべきではないと考えるように
また健聴生は、
「入学した時、障害者がこの世の中にいるなんて知らなかった。
耳が聞こえないと知って驚き『同情』したものだ。
しばらくすると、彼等は自分達の苦しみや生活と『同じ』だと知って、同情すべきではないと考えるようになった。
甘えているところもある。
そんな時は、健聴生みんなでつき放した。
そうしたら、互いの事が理解し合えるようになって、今までのギコチナイところがなくなってきた」
と語っている。
四年間の健聴生と聴障生の集団のぶつかり
そのことから、四年間の健聴生と聴障生の集団のぶつかりは次のように考えることが出来る。
健聴生は聴障生とのかかわりでは、驚き←同情←「同じだ」←批判・討論.行動←仲間としての深い結びつき。
聴障生は、不安(健聴生とうまくやれるか)←親切は当然←「不満」←批判・討論・行動←仲間としての深い結びつきのように変化してゆくことが考えられた。
まず第一に、互いに障害者の人、障害がない人のことを知らなかったということのたじろぎ、驚き。
第二に、しかし共に机にむかって学ぶという学習の連帯。
もう一つ重要なことは、健聴生のほとんどが昼働いていたことがある。
当時、聴障生の中で働いている生徒は少なかったこともあり、健聴生はそのことを「一つの問題」として考えていた。
聴障生は、そういう健聴生と接する中で全日制の健聴生と異なった何か……「あたたかさ」を感じ、「働きたい」という要求を持つようになる。
「ぼくは働いているのだ」という自信と喜びを持つ
そして、二年生になるころにはほとんどの聴障生が、なんらかのかたちで働くようになり、
「ぼくは働いているのだ」
という自信と喜びを持つようになる。
そういう意味での、働いているという連帯。
この二つを基礎に、
「聴障生も健聴生も障害はあってもなかっても、人間として同じなのだ」
という連帯の輪は、一層拡大してゆく。
第三には、そうすると今までと異なった健聴生集団と聴障生集団の動きが生じてくる。
それは、二年生の秋のことだった。
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