教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(12) ※ 読みやすくするために「小見出し」をつけました。
問題は 機械を使用する方程式の作り方に
京都府立の短期大学に、生活経済科という学科を設置するってことで、先日、学長さんとお話しあいしたときも、この点をお願いしておいたんですが、
生活経済、ってえと、何か、電子計算機の使い方を教えるのか、と見る向きがあるけれど、そんなことだけじゃいけない。
電算機は、あくまでも機械であって、道具であるにすぎないんです。
問題は、その機械を使用する方程式の作り方にこそあるんです。
近ごろ、よくコンピューターの見通しとか、いばってますけども、選挙の当選予想など自慢して報道してますが、大てい当ったことはない。
それは、質的なものを量化していれることができないってことであり、その方程式をつくるってことが、いかににむずかしいかを物語っているんです。
それなのに、しまいには、嫁さんまで、コンピューターでえらぶってのが流行ってる。
こんなバカなこたあないですよ。
どうやって測るのか 「愛情」「あったかさ」「かわいさ」
あの、勤務評定、ってのも、そうです。
だいたい子供に教育を行う教師の働きを評価すること自体まちがいだって、私は、当時いったんです。
勤評の項目はどんなものかとのぞいてみたら、「教育愛」などという項目がならんでいる。
おどろきましたねえ。
いったい
「愛情」とか、
「あったかさ」とか
「かわいさ」とかを、
どっやって測ろうというのだろうか。
インテンシブなものは、エクステンシブなものにおきかえないと測れないんですよ。
ちょうどあの水銀柱のように。
教育愛を一体何におきかえるというのか。
たとえば、愛情のつよさ、を量化して、抱きつく力、にするのだろうか。
もしそうなら、おすもうさんが、いちばん愛情が強いってことになってしまう。
私あ
「そんな馬鹿なことはやめてくれ」
って言ったんです。
「アホとちゃうか」 勤評などは
府教委や京教組の考え方は別だったかもしれませんが、以上のような考え方から、京都府としては、教師の勤評は、はじめからやらなかった。
むしろ校長にまかしておけばいいんです。
校長によい人をえることのほうが、教育にはよいことであって、勤評などは、関西のいい方でいえば
「アホとちゃうか」
今でもやってる府県があるとききますが、全くナンセンスです。
教育なんてものは、インテンシブなものなんですから。
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