2012年6月28日木曜日

生徒の要求運動から出てきた朝鮮語を!外国語講座に が中国語に変更された


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育


ー京都のほどんど知られていない
     障害児教育から学ぶ教育ー

日本で創造された共同教育インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョンましてや特別支援教育ではなく(16)

 ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)が復学出来たことと、彼が在学に中国語を選択したことには、重要な意味がある。

彼が、復学を申し出た頃。
 山城高校では、聴覚障害児を受け入れ教育をしてほしいという京都府教育委員会からの申し入れに対して教職員の間で大論議、対立が生じていた。特に全日制(普通科・商業科設置)よりも定時制(普通科)のほうが激しかった。

「教室にストーブを」「グランドに照明設備を」
「授業料を安く」
「仕事が終わって急いで学校に来ても空腹せめて、パンと牛乳を」
「在日朝鮮人生徒のために母国語を学ぶ機会を」

 京都府立山城高校は、もともと夜間中学校(旧制)からはじまったものであり、苦学生が多く学んでいた。そのため学習意欲は非常に強く、少なくない生徒が卒業後昼間でも入学困難な大学に進学していた。
 寸暇を惜しんで、食べるものも食べられないで学習する気持ちは「夜学生の詩」として数多く綴られ、伝承されてきた。

 これらの状況は、1970年半ば以降、一変するが、京都府立高校の中で際だって山城高校定時制の生徒たち、生徒会の行動は活発だった。

 今日では、信じられないだろうと思うが、教室は電球がわずか。

 うす暗い教室に冬は長火鉢という環境の中で、生徒たちは結束して

「教室にストーブを」
「グランドに照明設備を」
「授業料を安く」
「仕事が終わって急いで学校に来ても空腹せめて、パンと牛乳を」
「在日朝鮮人生徒のために母国語を学ぶ機会を」

などなどの要求をかかげ、時には京都府教育委員会にまで行ったりしていた。
それだけ、夜間定時制の勉学条件は悪かった。

  選択科目中国語の設置と人見豊氏(瞳みのる)

 切実な要求に教職員も一緒になって行動した。

「在日朝鮮人生徒のために
母国語を学ぶ機会を」

をという要求は、学習指導要領で外国語の選択科目に朝鮮語(当時)は、まったく入れられておらずその要求を実現するのは困難だった。

 だがしかし、日中国交がない中でも中国語の選択科目をおくことは可能であった。

 そのため「在日朝鮮人生徒のために母国語を学ぶ機会を」という生徒たちと充分話をした上で外国語の選択科目に中国語を入れることになり、京都府教育委員会に選択科目中国語の設置を申請し、それが認められ実施された。

その時、人見豊氏(瞳みのる)が中国語を選択出来る学年にいたため、中国語とであうことになったのである。

 当時、京都府立学校で、中国語を選択できるのは唯一山城高校定時制だけだった。

山城高校事件と上岡龍太郎氏の父
     弁護士小林為太郎氏の活躍

 これらの一連の動きに対して、古くから京都府教育委員会の教育長をはじめ一部に苦々しく思う教育委員会職員がいて、意図的に山城高校のやり方を内部崩壊させようと人事異動を強行した。
 1959年3月以降にこのことが大問題になり、定時制の3名の教師が暴力行為を働いたとして逮捕されるという山城高校事件が起き、刑事事件へと発展した。
 この時、この事件は全国的な問題になると共に上岡龍太郎氏の父である弁護士の小林為太郎氏の活躍で1964年京都地裁で無罪判決。
 1967年京都府人事委員会が免職取り消しなど教師側の正当性が全面的に正しかったことが証明されたのである。

 だから、山城高校定時制ではその後遺症は残っているものの、定時制で学ぼうとする生徒はすべて受け入れ、学ぶ機会を充分保障しようという考えは強くあった。
 だから、ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)が、

五年足らず活動した後、思うところがあり学校に戻りたいと願った。学校は除籍を解きやさしく迎え入れてくれた。こうして私は、ほぼ十年かかって高校を卒業したのである。

と書いていることは、山城高校定時制ではごく自然なこととして考えられていた。
 彼の有名さとはまったく関係なしに。

 だが、聴覚障害児教育となると状況はまったく違ったことになった。





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