教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(33)
基本的人権・人間の尊厳と
「自尊心」などの教育実践上の大きな違い
いわゆる「発達障害」の一部の研究者は、LD,AHHD,アスペルガーの子どもたちに自尊心を育てることが大切であると強調する。
だが、自尊心とは、「自尊の気持。特に、自分の尊厳を意識・主張して、他人の干渉を排除しようとする心理・態度。プライド。」とされ、他人の干渉を排除しようとする心理という概念が含まれている。
これは、排除の考えであって、連帯の考えではない。
私たちは、「人権教育」とか、人権という考えを強調しなかった。
それは、憲法11条・13条の
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。
とする考えを大切にしたからである。
自分には、基本的人権が生まれながらにあるのだ。
それは、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の与えられ、個人が尊重されるのだ。
これが日本の法律の基本なんだ、とすることによって「自分」も「他の人も」基本的人権があると知り、「連帯の教育」が産まれるからである。
青年期に同じ障害者どうし
他に障害がある仲間および集団との交流と
さらに大きな集団の形成が大事であると 考えていた時に
E君たちは、そのことを具体的に私たちに教えてくれた。
私たちは、E君がお父さんを土下座させてあやまらせたことを深刻な問題として考えていた。
そして、青年期の障害者に重要なことは、同じ障害者どうし、他に障害がある仲間および集団との交流とさらに大きな集団の形成が大事であると考えた。
障害児者はいつまでも孤独ではない。
自分たちの悩みを受けとめる仲間をさがし、またつくりだしてゆく。
「同じ障害者の仲間を知ったとき、話したとき、気持がピヅタリして、初対面なのに、以前から友人であったような気がして、うちとけた」
と障害者の集まりにはじめて参加した人はたいていこう語ってくれていたことを想い出したりした。
仲間や集団は障害児者のいわば生命の源泉であり、エネルギーをひきだす母体である。
これがあるならばどんなことでも紆余曲折しながらすすんでいける。
集団の中で障害者は、大きな自己変革をとげ成長していく。
と考えた。
そんな時、驚くような問題提起が聴覚障害生徒から出されてきた。
聴覚障害に関する専門書・啓蒙書、障害児者関係の本の本棚を作り、出入りする生徒も自由に読めるように
山城高校の聴覚指導室には、聴力検査室や個別学習室と楕円形テーブルの集団ミーティングの場などが作られていたが、同時に聴覚障害に関する専門書・啓蒙書、障害児者関係の本の本棚を作り、出入りする生徒も自由に読めるようにしていた。
また、図書館にも同様に関連する本も置いてもらっていた。
え、カンパって何や
みんなに話するの
ようせんわそんなこと
ある日。
全日制・定時制の聴覚障害生徒たちから
「先生、この集会に出て学習したいけど行けないかなぁ」
と言ってきた。
河野勝行氏の(歴史研究者)「日本の障害者-その過去・現在および未来」が記念講演の全国障害者問題研究集会だった。
本棚にある資料や本を見て、このことを知って内々の相談して居たみたいであった。
場所が金沢。交通費、宿泊費、参加費。
とても、みんなが出せる費用ではない。
でも、どうしても障害児者問題を学びたいとみんなの意見が一致したという。
障害者手帳1種2級の聴覚障害生徒も多い。
健聴生徒も介護人ということで一緒に行けば交通費も半額になる。
でも、宿泊、参加費が重なるととてもとても費用がかさむ、先生、知恵を貸してくれ、と言うことであった。
本堂でみんなで寝たら良い それでよかったら
生徒みんなに君たちの気持ちを訴えてカンパをしてもらったら。
え、カンパって何や。みんなに話するの。ようせんわそんなこと。
カンパもらったお礼はどうしたら良いの。
いろいろな意見が出されたが、聴覚障害生徒同士の話し合いに任せた。
すると、健聴生徒が次々とカンパをしてくれて、一緒に集会に参加したいとの申し出があった。
聴覚障害生徒は、びっっくりして「家族の人の了承もらってから」って言ったとの報告が舞い込んだ。
でも、費用は足らなかった。
このような話を教職員で話している時、たまたま来校していたF主導主事が
「実家は富山県の井波の寺。
金沢から離れているけれど、金沢まで通えないことはない。バス、列車で帰ってきたら、本堂でみんなで寝たら良い。それでよかったら。」
と言ってくれた。
聴覚障害生徒に言うと大喜びだった。
でも、この時、E君の人生を変える大事件が起きるとは、誰も予想もさいていなかった。
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日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(33)
どんな重い障害児者でも、障害児者になった原因と現状がひきおこされているしくみを正しく知れば、決して親だけの責任とはならない。
はたして「自己肯定」「安心感」「自尊心」「自己認識」は
考える力を形成するか
近年、心理学の一部の影響やその他の運動の影響を受けて「あるがまま受けとめる」「本人が言うまま認め」ということが横行している。
それが
「自己肯定」
「安心感」
「自尊心」
「自己認識」
を考える力の形成をするという主張が多い。
ところが、このことばは本人たちの事を充分理解しているようで、裏腹にまだ成人でない子どもたちに自己責任を持たせているとも言える。
さらに
「問題行動を見て見ぬふりする傾向」
と結びついて、いじめなどの深刻な問題をより深刻化することになっているとも言えるのではないか。
教職員が事実から逃げることではない
生徒のねがいを本当に信じることは
「本人に聞いたところ、いじめなんかはしていない」と言う。
「そのことばを信じたい。」
とよく教育現場で語られる教師のことばである。
思春期から青年期にかけて生徒たちは、教師を見極め自分が誤魔化して言ってもそれを信じる教師とそうでない教師を見分けて、自分が誤魔化して言ってもそれを信じる教師をいい先生という場合があるが、内面は決してそうではない場合が多い。
そして、系統的にいじめられ続けた生徒(必ず暴力がふるわれていた)たちの心境を最大の配慮をして尋ねるということをしていないで、いじめた生徒(暴力をふるった生徒)に聞くことが多い。
よくないことはよくない
と教えることの大切さと教職員のエネルギー
山城高校では、このような事態にしばしばぶつかり、教師間の激しい論議が行われた。
その中で、あらゆる配慮をして、よくないことはよくない、と徹底的に生徒に教えていくことが大切だということでおおかた合意出来るようになった。
「自己肯定」「安心感」「自尊心」「自己認識」を考える力の形成をするためにという名目は、結局生徒たちの抱える問題を放置することになり、教師として、なにもしないという楽さを産む。
逆に、あらゆる配慮をして、よくないことはよくない、と徹底的に生徒に教えていくことは、大変なエネルギーを必要とする。
このことで、聴覚障害生徒も決して例外にすることはなかった。
では君はどうして足や耳が不自由になったの
E君が、
「お父さん、なんで僕みたいな子供(障害者)を生んだのや、お父さんの責任やと言ったら、お父さんは、土下座してあやまってきた」
「それで君は満足したの?」
「そんなことはなかったけれど……」
と言った時、E君の言ったことを肯定しないで次のような質問をした。
「では君はどうして足や耳が不自由になったの?」
「小児まひになったから……」
「君より年下の人で小児まひの人がいないけどどうして……?」
「ワクチンをのむようになったから……」
「君のお父さんはワクチンを君にのませなかったの?」
「当時はワクチソはまだ輸入されていなかったから……」
「それでもお父さんが悪いの?」
「…………」
当時、親は、子どものために、どんなぼあいでも、どんなことをしてでも、最大の努力と犠牲をはらっていた。
しかし、それでも問題はほんの少ししか解決しなかった。
「あの時、ああしてやれば良かったのに……」
という親の反省は、子どもに対する深い愛情そのものであり、そのことが即、障害は親自身の責任とはならないのである。
E君への質問とE君の葛藤は、その後大きな影響を与えることになる。
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日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(32)
土下座してあやまってきた お父さん
ある日。 E君と話をした時、
「お父さん、なんで僕みたいな子供(障害者)を生んだのや、お父さんの責任やと言ったら、お父さんは、土下座してあやまってきた。」
「それで君は満足したの?」
「そんなことはなかったけれど……」
身体の成長は自らの障害を再認識することになり、社会生活の中での孤独と重なり
「言い知れない不安と、言い表しきれない不満」
を持ち始める。
そして、すべての矛盾を自己の障害そのものだけが原因であると考え、自己を障害の否定へとおちこんでゆく。
15歳。
自分を卑下し、自分の存在そのものへの否定となり、障害を持つ自分を生んだ親を追求することに帰着しがちである。
このことで多くの障害者が悩み続ける。
また生き方の分水嶺にもなる。
それと並行しながら、異性に対するあこがれや恋愛・結婚という問題に直面してゆく。
このこともまた、障害者が自己の障害をどう考えるのか、健体者は、障害者をどう見ているのか、ということを障害者自身にかえしてくることになるのである。
この時期にとって重要なことの第一は、障害者自身に障害の原因を正しく知らせ、なにが障害者差別を生んできているかを科学的に認識出来ることである。
「私は困難に直面した時、たえず親をうらんだ、けれどそれをのり切れたのは、非常に簡単で的確な親の答えであった。
戦争がお前を障害者にしたのだ、という言葉である」
(大学に障害者の門を開くための協議会、京都結成大会における藤野高明先生の講演より)
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ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(31)
青年期の発達と教育課題
聴覚障害生徒は、16歳頃をすぎると大きな成長をとげる。
成人への身体的成長と社会的かかわりの中での発達は、いくつかの複雑な状況を呈してくる。
このことへの教育課題は、1970年代から故田中昌人先生から山城高校の教育と聴覚障害教育との関わりでいくども提起を受けていた。
その後、25年経って故田中昌人先生から次の青年期の課題が紹介された。
(田中昌人講演記録 子どもの発達と健康教育 ③ 著作・編集 京教組養護教員部)
まず、その一部を紹介させていただく。
十四歳と十五歳の時はもう違う 自分の本当の価値を知る
石川啄木は、「煙」という作品のなかで、今の自分にはない、けれども「あんなふしぎな時代」があったと書いています。
そして、
己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかえる術なし
夜寝ても口笛吹きぬ
口笛は
十五の」歌にしありけり
と歌っています。
自分の本当の、価値を知っていくことです。
恥ずかしくて人に言えないし、交換ノートにもとてもかけないけれど、何かそこに呼びかけてみたいようなものを持っている世界が、「心の小箱」としてできていくということです。
それが、十四歳と十五歳の時はもう違います。
学校ではもう一瞥(いちべつ)だにしてもらえなくて 何の評価もしてくれないが
十五歳になりますと、はなしことば、書きことばではなく、今度は「ギターを弾いてみる」「野山に行って歌ってみる」「口笛で表現してみる」と、これまで持っている力を全部使っていきます。
英語で日記を書いてみる。イラストで何か自分の心を表現してみるなど。
その子その子なりのいろいろな表現をしていきます。
学校ではもう一瞥(いちべつ)だにしてもらえなくて、何の評価もしてくれないわけですが、その子にとっては、かけがえのない大切なものなのです。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
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日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(30)
検討するまでもなく寄宿舎に受け入れられない
ろう学校からの返事はすぐに来た。
検討するまでもなく受け入れられないという返事だった。
ろう学校の寄宿舎は、
1,ろう学校の生徒のための寄宿舎であり、他校の生徒の寄宿舎ではない。その基本を外すとろう学校の寄宿舎が寄宿舎でなくなる。
2,寄宿舎には、E君のような肢体不自由の子どもの施設がなく、とうてい受け入れがたいことを山城高校が言ってくるのは、ろう学校の実情を承知していないからである。
と言うのが主な理由であった。
絶対承服できないもの
断られることは予測していたものの、②の点は絶対承服できないものであった。
なぜなら、
1.ろう学校には、重複障害の生徒が多く在籍していることは、充分知っている。
寄宿舎では、聴覚障害の生徒への施設配慮はされているが、肢体不自由の生徒の施設配慮は、されていないとでも言っているのだろうか。
ろう学校の実情を知らない人ならうなずけてもこの項目はうなずけないものであった。
校長にそのことを説明すると、校長はびっくりしていた。
当時は、京都府教育委員会では、高等学校の担当と障害児学校の担当が別であったため、高等学校の担当も校長もろう学校からの返事に納得していたのである。
2,とうてい受け入れがたいことを山城高校が言ってくるのは、ろう学校の実情を承知していないからである、という項目は、山城高校の聴覚障害教育担当は、ろう学校の教師でもあったことから考えても、ろう学校の実情を承知していない、という主張は、聴覚障害教育担当者への「批判」ともとれた。
3,ろう学校の寄宿舎は、ろう学校の生徒のための寄宿舎、という言い方は、「説得力があるようでなかった」。
府県によって設置責任が違った寄宿舎
このことを知る人は少ないが、盲学校やろう学校が戦後早く義務化された時、
寄宿舎は、盲・ろう児の児童福祉施設(厚生省管轄)か、ろう学校の寄宿舎(文部省管轄)か、どちらでもよいとされた。
そのため都道府県によっては、児童福祉施設としての寄宿舎として学校に併設されてつくられているところが少なくなかった。
これらのことから考えてもE君が、ろう学校の生徒でなくても入舎出来る道をつくることは可能であった。
ろう学校の生徒でないと言うなら「二重在籍」も検討すべきだ、と言ったが寄宿舎入舎の門は、開かれなかった。
なぜ 同じ障害があるのに断るのか
E君に寄宿舎入舎が出来ない故を説明したが、
「なぜ、同じ障害があるのに断るのか。」
と憤慨した。
私たちは、今はそうだろうけど山城高校のように少しずつ取り組み、状況を変えて行かなければならないし、今は苦しいけれど、いつか変えて行こうと話をした。
そのE君が、山城高校を卒業して、福祉大学に入り、卒業し、寄宿舎教諭(当時、寮母の名称)になり、今、ろう学校の寄宿舎教諭として働いている。
時代は、変わるものである。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(29)
E君は、母校のM養護学校の時は、寄宿舎に入舎して学習を進めていたが、山城高に入学してからは、自宅から通学していた。
ところがその自宅は、山城高校から遙か遠くにあった。
京都府下中部にある自宅を早朝5時頃に出て、1日数本のバスに揺られて国鉄(当時)の駅に着く。
駅から各停に乗って国鉄の駅について、そこから市バスに乗ってバス停から徒歩という毎日だった。
長時間通学のため疲れ切ってしまっても当然という状況であった。
よく欠席・遅刻をした本当のわけ
文化祭で、
初めの一年間は、そのようなわけでうっぷん晴らしに、あまり聞こえない深夜放送にひたったり、夜遅くまで本を読んだりして時間をつぶしました。
その結果、私はよく欠席・遅刻をしました。みなさんは私に遠慮していたのかどうかわかりませんが 一度も文句を言われませんでした
授業の途中で入ってきて、集団補聴器をセットするのは、授業を受けている仲間の気をそらすことになり、大変気がとがめました。
としか言えないで、何時間もかけて通学していることはまだ言えないでいた。
E君の通学状況を知るため、E君の自宅を訪問した。おばあさんが、出てきて言われたのは、
「ようぞ こんな山奥までおこしいただいて。」
が、最初のことばだった。
ようぞこんな山奥から山城高校に通っている、と言う印象を強く抱いたのは、教師のほうだった。
身体にとって大変な負担を少しでも解消しよう
恐縮しつづけるおばあさんは、何度も何度も頭を下げられ、孫をよくぞ学校に入れていただいたと喜ばれる。
ゆっくりした時間とともに、E君は家族にかなり「甘やかされて」いることも解ったし、「わがまま」を言っていることもわかった。
それにしても、山城高校までのこの遠さ。
近くのバス停の停車時間を見ても朝夕だけ。
E君の身体にとって大変な負担を少しでも解消しようと考えた。
一番近くにあり 最も理解してくれるはずの
京都府立ろう学校の寄宿舎がある
そこで、京都府立ろう学校の寄宿舎に入れてもらえないだろうか、と相談した。
京都府教育委員会が山城高校に聴覚障害生徒の受け入れを考えた時、京都府立ろう学校に一番近い府立高等学校が山城高校であり、双方の学校の連携・協力が必要となるであろうし、また、新しい連携・協力をつくりあげて一つのモデルケースとして京都全体に広げたいという意図があった。
山城高校で大論議している時に、京都ろう学校に連携・協力の話も提案されていた。
しかし、真剣に論議されていたとは考えにくい面があった。
ろう学校のもつ専門的機能を広く開放し 教育に生かす
当時、京都ろう学校の聴能言語室は、ろう学校生徒のみならず京都府下の聴覚障害生徒の聴覚活用のため援助はもちろん、生徒や保護者の教育相談等にも非常にていねいに、親切に応じていた。
もちろん、山城高校の聴覚障害生徒の聞こえの保障のより専門的な問題や解決などには、全面的に協力してくれていた。
ろう学校のもつ専門的機能を広く開放し、教育に生かすという考えだった。
ひょっとすればろう学校の寄宿舎に入れて通学出来るかも
だから、ひょっとすればE君が寄宿舎に入れて通学出来るかも知れないという淡い希望があった。
校長にそのことを提案。校長は、すぐ京都府教育委員会に行った。
帰ってきた校長は、京都府教育委員会はそのことはよく解ったが、ろう学校とも充分相談する。ろう学校が承諾すれは、制度的にも可能である、という返事をもらってきた。
さらに、もしそれが出来ない場合は、京都市内に府立高等学校に通えない僻地の生徒のための寄宿舎がある。そこも考えたいという返事だった。
だが、その寄宿舎の場所では、交通の利便性を考えても結局自宅通勤と変わらないということも解った。
なんとかろう学校の寄宿舎が、受け入れてくれないだろうか。
バスに乗らなくてもE君なら歩いて行ける場所にある、と待ち続けた。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(27)
「カッコよく」と「カッコ悪い」の狭間の理解
E君をはじめ多くの聴覚障害生徒は、
「補聴器やヘッドホーンをつけることはカッコ悪い」
という考えを持っていた。
当時の状況を考えると、ひとりの人間として他の人々と同じように、何の気がねもなく日常生活を送りたいという気持を有するのは、当然だった。
が、しかし、そのことは、現在ある障害を否定したうえから生じることがしばしばあった。
「カッコよく」ということは、他の「カヅコ悪い」ことに対する優越につながりやすく、反対に「カッコ良い」人との関係では障害を持つ自己に対する卑下にもつながり、
「自分さえなんとかがまんしていけば」
とか
「やっても無意味だ」
「自分は、普通高校に試験で入学できた。他の聴覚障害の高校生と違う」
という自己肯定と自己拒否にしばしばつながった。
その「あいだ」はなかったのである。
「先生、カッコ悪いのや」 「じゃあ、なぜカッコ悪いの?」
現在の社会の状況を見ると、ヘッドホーンをつけるとか、補聴器をつけるとか、が逆転してしまっているようにみえる。
ウオークマンからはじまった音楽機器の広がりは、健聴者があたりまえのようにつけ、逆に高性能で小型化した補聴器をつけている聴覚障害児者は、
「見てもわからない」
「話しても気が付かない」
ように見える。
だが、その内面は、1970年代と同じように思える。
教師が、
「なぜ補聴器を使わないのか?」
と問いかけると
「先生、カッコ悪いのや」
と聴覚障害生徒は言う。
「じゃあ、なぜカッコ悪いの?」
と質問しても、いつも返事はなかった。聴覚障害生徒みんながだまってしまうだけだった。
E君は肢体不自由であるため、母校の養護学校へよく行くこともあり、
「M養護学校へ行けぼ、車イスに乗った生徒や松葉づえをついた生徒がいるが、
その生徒に会ったとき君は、カッコ悪いな……。おれの方がカッコ良いそと考えるの」
とあえて話しかけた。
これらのことは、聴覚障害生徒に十分な配慮と状況把握をして指導した。
絶対に、無理強いしなかったし、そのことだけで生徒を突き止めると言うことを一切しなかった。
しかし、聴覚障害教育担当者には、切羽詰まった思いがあった。
補聴器も、ヘッドホーンをつけないでなぜ授業が出来るのか
聴覚障害生徒の受け入れを絶対反対している教師から、「補聴器も、ヘッドホーンをつけないでなぜ授業が出来るのか。通常の方法でいいという約束であったはずだ。」と日常的に追求されていたからである。
それらの先生は、現状をいくらていねいに説明してもぜんぜん受けつけなかった。
そればかりか京都府教育委員会が言ったことなのに聴覚障害教育担当に文句を言う。
京都府教育委員会には言えないため、腹いせに聴覚障害教育担当者にジクジクと言い続けていた。
だが、ここで焦って聴覚障害生徒を追求すると彼らの自由な高校生活が保障できないと考えて、状況を見据えて問題提起することにしていたのである。
カッコ悪いことなかったで 発達要求とニーズ
と生徒の本当の要求
ある日、E君は明るい顔をしてやってきて、
「先生カッコ悪いことなかったで。クラスで集団補聴器を使ったら、みんなカッコ良い、さわらせてくれ、借してくれといってきたで……」
と元気に語ってくれた。
私たちは、アングロサクソン系の人々が、ニーズということばを使っていたのを知っていたが、そういうことばを使わなかった。
インテグレーションということばも生徒にに使わなかった。
現在、ニーズということばが飛び交っているが、needsは、欲求、必要、要求、需要などの日本語に訳されるだろう。
だが、卒業した聴覚障害生徒が聴覚障害者団体の役員になり、要求書を行政にだすと
「そのようなニーズがあるかどうか、わかりませんのでお答え出来ません。」
と言われるという。
カタカナ表記は、使う側の解釈でさまざま変幻するようである。
しかし、生徒の発達要求を知ることは、並大抵の努力をもってしても把握出来ない。
もちろん本人自身も。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(26)
さまざまな問題を投げかけて、考えて、成長して行ったE君
第25回山城高校文化祭「自分にとっての山城高校」のテーマでひとりの聴覚障害生徒が講演したと書いたが、この講演をしたのは養護学校から山城高校にいたE君だった。
彼は、みんなの前ですべての事実を話したわけではなかった。
それは、それで聴覚障害教育担当者は、許容していた。
彼は、さまざまな問題を投げかけて、考えて、成長して行く。
そのいくつかを紹介したい。
その前に山城高校聴覚障害教育では、学習保障・聴覚保障・集団保障を重視していたが、E君が言った集団補聴器のことを先に説明しておきたい。
矛盾と問題の解決のための血みどろの取り組み
山城高校での聴覚保障は、まさに現在ある聴覚機器をふる活用しながらそれを使用する上での矛盾と問題の解決のための血みどろの取り組みだったと言っても言いすぎではなかった。
聴覚障害生徒のいるクラスを固定してその教室ですべての授業と選択講座を行う意見もあったが、それでは、健聴生徒とひとしく教育をうけたということにもならないし、物理、化学、芸術等々の教室で授業を受けることも出来ないということになり、講座によって教室を移動する聴覚保障を「歩む姿で」考えざるをえなかったのである。
実験、実習教室などは、安全のためループを部屋にめぐらし個人補聴器で聞く方式がとられた。
しかし、移動するための集団補聴器は、すべてオーダーメイドでつくらなければならなかった。
E君は、その機械の不具合を山城高校文化祭で訴えたわけである。
オーダーメイドの集団補聴器第1号
オーダーメイドの集団補聴器(複数の聴覚障害生徒が聞くことが出来る。)は、京都府教育委員会が知事部局に山城高校の聴覚障害生徒のための機器などを含む独自予算を要求し、府議会の承認を得て予算化される。
そして、オーダーメイド(当時市販されている集団補聴器などは机と一体型のものでしかなく外国製品となるととても高額だった。)するという順序だった。
聴覚障害生徒の使用状況と要求から、翌年度は改良型オーダーメイドの集団補聴器をつくるという状況だった。
そのためE君は、最初の聴覚障害生徒として入学したためオーダーメード1号機を使用したわけである。
京都府教育委員会の担当者は熱心に話を聞き努力してくれたが
E君が、文化祭で訴えるまでもなく、問題点が解っていたのでオーダーメイド発注製造担当者来てもらいノイズや混線状況を調べてもらったが、高校という大きな建物がいくつかあり、周辺にさまざまな電波がとんでいることもあり原因を単純に捉えることは容易ではなかった。
一教室に備え付けの集団補聴器ならより簡単であるが、選択講座等になると「移動」は必須条件であり、極力軽量化して移動可能な持ち運び式集団補聴器をつくる必要があった。
こういうものをつくるためにさまざまな資料や設計図を京都府教育委員会に出したが、当時の京都府教育委員会の担当者は熱心に話を聞き、努力してくれた。
しかし、もう一つの重要な点をも含んでいた。
「カッコ悪い」という問題である。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(25)
第25回山城高校文化祭「自分にとっての山城高校」のテーマでひとりの聴覚障害生が名のり出て全校生徒の前で講演した。
こんな重いものを持ち歩いていたら
「腕が強くなるな」と思っていただけだったが
私は授業をうけるときに、集団補聴器といって私が持ち歩いているのを見たことがあると思いますが体積は約18リットル、重さが約7キロの大きくて重いものを使っています。
初めてこの集団補聴器を使ったときは、こんな重いものを持ち歩いていたら「腕が強くなるな」と思っていただけなのです。
けれど、実際に毎日使っていますと、この集団補聴器は私にいろいろな苦痛をもたらしました。
この集団補聴器は、先生の胸につけているワイヤレスマイクから出る電波を受信して、増幅し、ヘッドホソか個人補聴器 - 今私が左耳につけているものですが - これで聞くのです。
ワイヤレスマイクの安定度が非常に悪い
ところが、ワイヤレスマイクの安定度が非常に悪いために、先生の声が入らなくなることが、ひんぱんにあったのです。
おまけに雑音が出てくるのです。
そのたび、私は集団補聴器の調整をしなければなりませんでした。
その結果、授業中はそのことばかりに気を取られ、授業が終ってみると授業の内容が頭に残りませんでした。
はたから見れば 大変こっけいであるかも知れませんが
また、集団補聴器の調整のため、席を立つことがひんぱんになり、講座の仲間の気をそらすことになるのに大変気がねした結果、先生の声が入らなくなっても、そのままにしておくことがたびたびでした。
はたから見れば、大変こっけいであるかも知れません。
けれど、私としては笑いごとではありませんでした。
うっぷん晴らし 欠席・遅刻
大変重いということも、私には苦痛になってきました。
私は授業中一部の人がうるさいこともあって、授業があまりおもしろくありませんでした。
集団補聴器を持っていかないで、個人補聴器で聞くこともしばしばでした。
初めの一年間は、そのようなわけでうっぷん晴らしに、あまり聞こえない深夜放送にひたったり、夜遅くまで本を読んだりして時間をつぶしました。
その結果、私はよく欠席・遅刻をしました。
私に遠慮していたのか
どうかわかりませんが
一度も文句を言われませんでした
授業の途中で入ってきて、集団補聴器をセットするのは、授業を受けている仲間の気をそらすことになり、大変気がとがめました。
けれど、みなさんは私に遠慮していたのかどうかわかりませんが、一度も文句を言われませんでした。
私はみなさんが私のこと、集団補聴器のことについてどう思っているのかを知りたかったのです。
もっと自分から、積極的に話せばよかったかも知れません。
けれど、当時の私は自分に自信がありませんでした。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(24)
なぜ文部科学省は
日本語用語と英語のカタカナ用語などを織り交ぜるのか
近年、文部科学省は特別支援教育・発達障害という用語やカタカナ表記やアルファベット表記などを織り交ぜて従来の特殊教育ということばを打ち捨てたように見える。
また研究者をはじめ多くの人々がこのことばを流行語のように使っている。
特別支援教育という日本語表記そのものはなにに対して特別であり、支援するのか、ということが意味不明で人それぞれに解釈されている。
解釈するのは自由だが、同じ用語を使っていても使う側の解釈が違うためになにを主張しているのかさっぱりわからないことが多い。
だが、そのことが専門性とまで思われているから事態は深刻であると思う。
そしてカタカナ表記と日本語表記を織り交ぜるため、カタカナ表記を日本語に置き換えるととんでもない意味となることが多い。
教育用語でない他の分野の専門用語が飛び交うが
そこには教育はない
しかも、特別支援教育の専門用語なるものは、もともと税務評価であった用語や工学用語であったものや経営学用語であったものがほとんどである。
ようは、教育産業としての教育。 教育投資して見返りのある場合の子どもたちは教育対象とするという本質がカタカナ表記で覆い隠されているようである。
山城高校ではじめられた聴覚障害児教育は、各学校に特別支援教育の対策会議をつくるようにという文部科学省の対象外とされている現状を見る時、すべての子どもたちを視野に入れて課題のある生徒へより密度の濃い教育を支援するという教育になってはいないことがわかる。
文部科学省は、発達障害とするLDなどの三つの課題をもった子どもたちだけを対象にはしていないとも通達しているが、ほとんどの学校では文部科学省の言う発達障害のみが問題にされいる現状をどのように考えるのか、またその対策を明らかにすべきであろう。
子どもたちも教職員も
いそいそと行ける楽しい学校になっているだろうか
さらに、文部科学省の言う発達障害を基に発達障害児の不理解や人権上の問題を強調する研究者たちは、学校や教育のあり方、現行教育制度の改革案をまったく問題にしているとは思えない。
むしろ教師個人の資質に責任を追求する場合が多い。
学校は、子どもたちと教職員たちが教育をすすめる場である。
個人の資質がいくら良くても学校全体や教育行政の方向が、個人の資質を破壊してしまっている現状を冷静に見なければならない。
戦前、戦後を通じて教職員の精神疾患が急増し、休職、休職と復帰のくり返し、そして退職が年々増加の一途をたどっていること。新採教職員の1年未満の退職が50%から80%の府県が多い(教育委委員会はひた隠しにしているが)現実を直視して、職場条件の緊急改善がもとめられている。
先のブログに掲載した蜷川虎三氏が和歌山で講演した時の子どもも教職員も
「愛人に会うようにいそいそと行ける学校」
になっているだろうか。
むしろ聴覚障害生徒同士の理解を深める取り組み
山城高校では、聴覚障害生徒の理解を健聴生徒に求めるよりもむしろ聴覚障害生徒同士の理解を深める取り組みを重視した。
それは、結果的に健聴生徒の理解を広げることになったのである。
以下、聴覚障害生徒が山城高校の全校生徒を前に話したことを紹介する。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(23)
青年期はそれまでの自ら受けてきた教育
に対する「総括期」でもある
D君が
自分が健聴者から差別や偏見を受けたり、自分より重い聴覚障害者に差別や偏見を持つ危険がありました。
と自ら述べた青年期は、それまでの自ら受けてきた教育に対する「総括」でもあり、当時盛んに言われていたインテグレーションの問題点を突いた提起であった。
さらに、今だ一部の人々がくり返し言って「ろう教育の9歳の壁」「9歳の壁」問題に変更を迫るものであった。
すなわち、
私は小学校4年の頃に学校生活における自分の立場を理解することになり、いつまでも遊んでばかりいられなくなりました。私の学校での成績は、その時から上昇力ーブを描くようになりました。
というこにある。
つくられた「9歳の壁」に対して
「9歳の壁」は、音声言語指導や文字指導による「歪み」が生じたものであり、自然発生的に生じたものでないことをD君は指摘しているのである。
すなわち、「9歳の壁」なるものは、幼児期に教えた教師や関係者が抱いた感覚的感想でしかなく、教育をうけた側の子どもたちの内面に生じている「変化」とそのエネルギーを調べたものではないからである。
その点では、D君が 学校生活における自分の立場を理解することになり、いつまでも遊んでばかりいられなく
と自己のな的条件を変化させた力を充分考慮する必要があるのである。
山城高校の聴覚障害教育は、無理強いしないけれど、だからとといって放置しない、綿密な教師集団の論議と方向性をもって取り組みを進めたが、乳幼児期から青年期を考えて高校という青年期の教育を考えてきた。
インテグレーション・メインストリーミング
インクルージョンの外書講読
この時期、京都の少なくない耳鼻科医と聴覚障害児教育に携わる教師たちで諸外国の文献をとりよせ、学習と研究を重ね、それをより具体的に教育実践の場で検証し、検討して教育全体に還流してきた。
そのためインテグレーション・インストリーミングはもちろん、1978年に出されたイギリスのマリー・ウォーノック(Mary Warnock)を議長とする障害児・者の教育調査委員会の報告書。イギリスの教育法。「スペシャルニーズ」などはもちろん、その後イギリスの教育制度を採り入れたインクルージョンなどの外書講読も含めた検討を行った。
海外研修の結果と
照合して
さらに、1970年代前後は文部省の海外研修に対して京都府教育委員会は、希望者を募ったため積極的に申し出た。
当時他府県では、海外研究は、管理職登用の道であったため参加した教師たちは巨額な餞別をもらっていたが、参加した京都の教師は自腹も多かった。
そして、文献と海外視察で得た情報を元に聴覚障害教育の展望をさらに深めたが、日本の一部の大学研究者が盛んに絶賛していたインテグレーション・メインストリーミングの実態が事実とあまりにもかけ離れていることがわかった。
特に教育財政が、他の行政の財政とは別立てであること、「ふるい分けらた」生徒たちが教育対象になっていることもわかってきた。
学ぶものは学んで、日本として独自の聴覚障害教育方法を
そのため日本は諸外国から学ぶけれど、模倣は出来ない。
でも学ぶものは学んで、日本として独自の聴覚障害教育方法を創造していかなければならないとの結論に達していた。
そのため20年ほど前に文部省が、インクルージョンの導入を図っていることの講習会や文献を調べた時も、これはイギリス系教育制度をとり入れている国々と本質的狙いは違うものであることがすぐにわかった。
これらのことは、障害児教育関係の研究者にはまったくといっていいほど相手にされなかったが、大学医学部の耳鼻科医や開業医、教師でつくる研究会ではすでに克服されていた課題であった。
D君のような文章や発言は、数多くあった。
私たちは、聴覚障害生徒や健聴生徒(山城高校ではこのような言い方をしていた。)とたえず、意見を交わしながら高校での取り組みをすめた。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(22)
楕円形テーブルでの話し合いにD君が口火を切った
普通校のみで学んできた障害者D君は明確に語りはじめた。
私は、中学校までなんの障害も持たない子どもたちの普通学校へ行き、他の聴覚障害者との接触がありませんでしたので、自分の障害を真剣に考えることがありませんでした。
ですから、先生方や友達に理解してもらうことなど、充分にできるはずがなかったのです。
健聴者から差別や偏見を受けたり
自分より重い聴覚障害者に差別や偏見を持つ危険が
当然、そこには自分が健聴者から差別や偏見を受けたり、自分より重い聴覚障害者に差別や偏見を持つ危険がありました。
私は小学校4年の頃に学校生活における自分の立場を理解することになり、いつまでも遊んでばかりいられなくなりました。
私の学校での成績は、その時から上昇力ーブを描くようになりました。
小学校5年か6年のとき、私の担任の先生は、私の母に対して次のように言ったのです。
「D君が頑張るので、みんなも、負けまいとして頑張るようになりました。」
と言ったのです。
自信と危険な優越感が生まれた
その当時の私は、この言葉のため「自分は健聴生の中についていけるのだ」という自信と、危険な優越感が生まれたのです。
私の同級生の一部には、私が頭角を出して来たことに反感を感じている人がいました。
私が聴覚障害者を他の人に理解してもらうことができなかったから当然のことでした。
もしみなさんが、今授業の場で、そんなことを言われたら励みになるという人がいるかもしれません。
でも逆にバカにされたと感じる人もいるでしょう。
聴覚障害者も健聴者も、ひとりひとりが個性を持っている人間なのです。
障害者としてのD君ががんばれば他の障害を持たない生徒もがんばるということは、それだけがひとりあるきして、機械的に特定の手段とされるならば、障害者の人でもあんなにがんばっているではないか、君らにそれができないはずはないという対立、差別下の状況を肯定するものとなる。
それを放置しておくならば、同じ障害者の中で
他の重い障害者に対する差別や偏見を生み出し、結局は、障害者がバラバラにされ、対立と、憎しみ、他の弱い者に対する優越感を持たされて社会にでてゆくことになる。
このような歴史的制約を負いつつ、それだからなおのことこれまでの生活を集約し、社会へむけて第二の生活をしてゆく出発点が障害者の青年期に求められているとD君は提起したのである。
青年期の聴覚障害生徒の未来
高校時代という青年期。
特に15歳から16歳にかけての時期に、それまでの教育や社会状況にただのみ込まれることなく、教訓をひきだし、なかまとともに青年としての素直な若々しいエネルギーを発揮し、組織していくことが自覚的になされることがいかに大事であるかをD君は山城高校に入学して、
聴覚障害生徒や他の障害のある生徒。
障害を併せもつ生徒から素早く今までの自分を感じ取り、論理化しはじめた。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(21)
障害児が学習上の基礎集団を持ちつつ
必要な新しい仲間と共同に学び合つ教育機会を保障する
山城高校での聴覚障害児を受け入れた教育制度が始まった時、聴覚障害教育担当教師は、1973年和歌山県で開かれた全国教育研究集会で共同研究者の田中昌人先生が「共同教育」で提起した
「障害児が学習上の基礎集団を持ちつつ学習集団を基礎集団として、それを解体、分割することなく、基本にして、ただどこでもいいとか、安易な交流ではなく、基礎集団に、必要な新しい仲間」であるとしていることは先行的に理解していた。
そのうえで、共同に学び合つ教育機会を保障する教育活動、が「共同教育」であるとして、
「必要な」「複数の集団の保障」が必要であるとしている。
基礎集団と関わる複数の集団は、どんな集団でもいいということだけではない。
吟味された「複数の集団」との関わりが大切であるという指摘もすでに受けとめていた。
生徒には手に職を身につけることが一番だと
ろう学校高等部は固持
京都府立山城高校の聴覚障害生徒の受け入れに対しては、京都府立京都ろう学校の一部の先生は理解と賛同を示したものの高等部(普通科がなく職業学科だけだった)は、猛反発・反対し京都府教育委員会にも意見書をあげていた。
聴覚障害の生徒には手に職を身につけることが一番だと。
そして、知り合いの山城高校の教師にさかんにそのことを吹き込んでいた。
一番の理解者が多いはずの、ろう学校高等部が「敵対的」関係で立ち現れて来たため聴覚障害教育担当の苦労は計り知れないものとなった。
民主的な見とおし路線の形成とそれをはばむものには
共同の反撃を加えてゆく規律
このことでも、1973年和歌山県で開かれた全国教育研究集会で田中昌人先生の指摘していた。
田中昌人先生は、障害児教育は障害児教育だけで成立するのではなく、他の領域の科学的な到達点と成果を取り込むことによって、障害児教育が科学的に裏打ちされたものとなりその発展は無限に広がるということを意図して述べていたこと。
教職員の役割としては、
「教職員が地域や学校の民主化をすすめつつ」「子ども集団の民主的発展にとって必要なとき」「注意ぶかく準備された共同活動が必要」であり、その成果は、「子どもたちが自覚的に、文化継承の基礎になる活動を追求しはじめるとき」
に現れるとしている。
ここでも、教育の主体に対する慎重でかつ綿密な考えがうちだされている。
そして、教職員は、「共同の事業として、年次計画をたてて取り組み」という先に述べている「民主的な見とおし路線の形成」の具体例を挙げ「それをはばむものには、共同の反撃を加えてゆく規律が必要である」と述べられていたことはすでにあきらかにした。
そのため聴覚障害教育担当者は、
「京都ろう学校高等部に普通科を設置して、高校三原則の総合制をろう学校でも具体化し、お互い切磋琢磨することで聴覚障害児の教育が発展するのではないか。」
「保護者の中や聴覚障害生徒の中には、ろう学校を全面否定し、入学を拒否してきたことは事実であるが、選択肢の幅を広げ子どもたちの教育をうける場を広げようでないか」
と呼びかけたが、永くそのことは否定されてきた。
楕円形のテーブルを中心にした話し合いを
一方、普通学級で学ぶ聴覚障害生徒に対しては、新しいく改装された聴覚指導室に聴覚障害生徒全員が座れる折りたたみ式楕円形のテーブルを置き、聴覚障害生徒が充分話し合える時間と、場所もつくった。
この取り組みは、現在、インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョンとされている取り組みとはまったく異質の教育実践であった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(20)
山城高校に聴覚障害児を制度的に受け入れる問題をめぐる賛否両論。賛否両論と言っても賛成は非常に少なくむしろ反対意見ばかりだった。
現在の京都府立高校では、京都府教育委員会から提起されて論議で賛否を論じるなどはほとんどない。
京都府教育委員会の決めたことだから……と校長。質問も意見も出す教職員会議が開かれることもなく、既成事実が進行してしまう。
もの言える、考える、改善する機会が保障されたことだったか
ある高校の保健室では、病弱、神経障害や絶望になったりする生徒が一日100人をはるかに超して、養護教諭はその対応に追われて午後になると疲労困憊になっている。
保健室に入りきれない生徒が、保健室前で待っていると校長など管理職が外来者が来たり、自分たちが通れないので、なんとかしろ、と養護教諭に詰め寄っている。
なんとかするのは、養護教諭の責任ではないのにすぐ誰かの責任にしてしまって、管理職の責任や学校全体で事態をどうするのか、と言うことすら話合う場が作られないでいる。
そのような実態を知れば知るほど、教職員の本音を徹底的に出し合い、意見を京都府教育委員会に言う場がもたれた1970年年代の京都府立高校と京都府教育委員会の関係は、もの言える、考える、改善する機会が保障されたこととして重要だったかもしてない。
「歩む姿で考える」と言う名言と約束
ともかく、賛否両論の意見は、あとあと良きにつれ、悪しきにつれ、尾を引いたものとなって行く。
京都府教育委員会指導部長は、専門教師の配置、施設設備等などは「歩む姿で考える」と言う名言と約束をして、1971年3月の高校入試がはじまる。
結果的に山城高校に聴覚障害生徒全日制普通科2名・定時制普通科6名が合格。
これにともない、全日制と定時制にそれぞれ2名のろう学校経験者とろう学校から異動した聴覚障害k教育担当教諭が配置され、全日制聴覚障害委員会・定時制聴覚障害委員会が発足し、この委員会で、あらゆる問題が話されて行くことになる。
ようは、難聴学級をつくらず、聴覚障害生徒は日常的に普通学級で学ぶ。
だだし「聴覚保障(生徒たちは聞こえの保障と言っていた)」のために、オーダーメードの聴覚機器が特注され、使用状況を見て毎年改良する。
聴覚室(当初は、教室半分の部屋、後に一教室半の聴覚指導室)をつくる。
聴覚障害教育担当教諭は 聴覚障害生徒を含めた授業の典型を示す
聴覚障害教育担当教諭は、聴覚障害生徒だけではなく、持ち時間は配慮するが聴覚障害生徒のいる授業も含めて教科教育をする。
そして、聴覚障害生徒を含めた教室での授業の典型を他の教師に具体的に示すというものであった。
そのため聴覚障害教育担当教諭の責任と負担は非常に重たかった。
特に、定時制には、6名の聴覚障害生。
聴覚障害以外にもさまざまな障害がある生徒。
全日制不合格で自暴自棄になっている生徒。もう一度学習し直そうとしている生徒。
さまざまな生徒が入学してきた。
そして暴力問題も含めて生徒指導上の問題が属していた。
こんな状況でやって行けるのか
1971年4月。
ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)の四年生再入学。
一年生に聴覚障害生徒の入学ということがはじまって行ったが、人見豊氏(瞳みのる)の話題は社会的に大きな広がりを示したが、聴覚障害生徒の入学はほとんど知られることはほとんどなかった。
こんな状況でやって行けるのか、という不安の中で、人見豊氏(瞳みのる)らが当時気づかなかったことが、聴覚障害教育に大きな影響を与えて行く。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(19)
1970年を前後して、京都府教育委員会は教育制度を変えたりする場合は、該当学校の教職員のはもちろん、広く府立学校の教職員の意見を聞き、教育行政として疑問や質問に応えるように努めていた。
ベストであったとは言えないが、現在の京都府教育委員会のやり方と比べると雲泥の差があった。
府教委の人事異動は 広く行われていたため
すでに、京都府立学校では、すでに少なくない聴覚障害児は入学し、卒業もしていた。
また、私学でも同様のことも多くあった、と書いたが、他の障害児のほとんども同様であった。
でも、入学時に問題になるが、入学して卒業すると障害児が入学していたことは忘れられる。
3年間という月日は、長いようで短い。
山城高校で聴覚障害児を受け入れる教育制度を京都府教育委員会が提案したときは、府議会の関係もあり極めて短期間の結論が教職員にもとめられた。
その時、少なくない教職員はすでに京都府立高校で障害生徒を教え、卒業させた経験があることを発言した。
また、京都府立養護学校の人事異動は、他府県のように障害児学校別枠採用試験方式をとらなかったため障害児学校在籍経験のある教職員は少なくなかった。
人事交流は、自由に行われていたからである。
他にも高校があるではないか ろう学校にどうしていかないのか
ところが繰り返し述べるが、聴覚障害児を制度として受け入れるとなると大きく意見が割れた。反対意見のほうが多かったが……。
そこで、出された主な意見を書くと次のようなことであった。
「なぜ、山城高校なのか。他にも高校があるではないか。」
「ろう学校にどうしていかないのか。ろう学校は、そのような子どもたちの学校ではないのか。」
「ろう学校と山城高校ではどこがどのように違うのか」
「京都市の中学校の難聴学級を卒業したら、京都市教育委員会が京都市立高校に難聴学級をつくればいい。なぜ、府立高校なのか。」
「受験する生徒の聞こえの程度は、どの程度なのか。」
「授業は、特別方法をしなければならないのか。それとも今まで通りの方法でいいのか。」
「実験などの危険をともなう場合、どのようにしたらいいのか」
「保護者の理解が得られているのか。」
「生徒たちが、聴覚障害の生徒をいじめないか心配である。」
「グラブは、どのようなクラブでも受け入れるのか」
「問題が生じた時、校長や京都府教育委員会が責任を持つのか」
「私たちは、普通高校の教育の仕事を命じられたのであって、障害児教育をするように命じられたわけではない。」
「受け入れにあたって、人ものをきちんと準備し万全の体制を組むのか。」
京都府教育委員会
山のような質問を浴びせられ徹夜の連続で資料を作成
ありとあらゆる意見が出された。
それに対して、校長・京都府教育委員会は資料を作成し、ひとつひとつ答えた。
2011年秋。
当時、指導主事で山城高校に京都府教育委員会指導部長とともに説明に行ったF元指導主事に当時のことを聞く機会があった。
F元指導主事は、
「これでもか、これでもか、山のような質問を浴びせられ、徹夜の連続で資料をつくらなければならなかった。」
「障害児教育・障害児学校とのあまりの違い。その認識の違いをひとつひとつ 埋めていかなければならないようで、非常に苦しい思いだった。」
「特に京都府教育委員会に対する責任追及は、すさましく、そこまで言われるのか、という苛立ちもしばしばあるほどだった。」
と話されていた。
京都府高身障部
討議資料を作成 府立学校教職員の中で討論をすすめる
山城高校の教職員の疑問に答えて、当時盲学校・ろう学校・養護学校の組合員でつくる京都府高身障部(当時の名称、その後すぐ障害児教育部へと発展する)も、京都の障害児教育の現状と普通学校での障害児の学習状況、そして山城高校が聴覚障害児を受け入れた教育制度をつくる討議資料を作成し、府立学校教職員に配布し、討論をすすめていった。
結果的に1971年京都府立山城高校は、聴覚障害生徒の受け入れを決定。
山城高校聴覚障害生徒受け入れ検討委員会が発足する。