教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(22)
楕円形テーブルでの話し合いにD君が口火を切った
普通校のみで学んできた障害者D君は明確に語りはじめた。
私は、中学校までなんの障害も持たない子どもたちの普通学校へ行き、他の聴覚障害者との接触がありませんでしたので、自分の障害を真剣に考えることがありませんでした。
ですから、先生方や友達に理解してもらうことなど、充分にできるはずがなかったのです。
健聴者から差別や偏見を受けたり
自分より重い聴覚障害者に差別や偏見を持つ危険が
当然、そこには自分が健聴者から差別や偏見を受けたり、自分より重い聴覚障害者に差別や偏見を持つ危険がありました。
私は小学校4年の頃に学校生活における自分の立場を理解することになり、いつまでも遊んでばかりいられなくなりました。
私の学校での成績は、その時から上昇力ーブを描くようになりました。
小学校5年か6年のとき、私の担任の先生は、私の母に対して次のように言ったのです。
「D君が頑張るので、みんなも、負けまいとして頑張るようになりました。」
と言ったのです。
自信と危険な優越感が生まれた
その当時の私は、この言葉のため「自分は健聴生の中についていけるのだ」という自信と、危険な優越感が生まれたのです。
私の同級生の一部には、私が頭角を出して来たことに反感を感じている人がいました。
私が聴覚障害者を他の人に理解してもらうことができなかったから当然のことでした。
もしみなさんが、今授業の場で、そんなことを言われたら励みになるという人がいるかもしれません。
でも逆にバカにされたと感じる人もいるでしょう。
聴覚障害者も健聴者も、ひとりひとりが個性を持っている人間なのです。
障害者としてのD君ががんばれば他の障害を持たない生徒もがんばるということは、それだけがひとりあるきして、機械的に特定の手段とされるならば、障害者の人でもあんなにがんばっているではないか、君らにそれができないはずはないという対立、差別下の状況を肯定するものとなる。
それを放置しておくならば、同じ障害者の中で
他の重い障害者に対する差別や偏見を生み出し、結局は、障害者がバラバラにされ、対立と、憎しみ、他の弱い者に対する優越感を持たされて社会にでてゆくことになる。
このような歴史的制約を負いつつ、それだからなおのことこれまでの生活を集約し、社会へむけて第二の生活をしてゆく出発点が障害者の青年期に求められているとD君は提起したのである。
青年期の聴覚障害生徒の未来
高校時代という青年期。
特に15歳から16歳にかけての時期に、それまでの教育や社会状況にただのみ込まれることなく、教訓をひきだし、なかまとともに青年としての素直な若々しいエネルギーを発揮し、組織していくことが自覚的になされることがいかに大事であるかをD君は山城高校に入学して、
聴覚障害生徒や他の障害のある生徒。
障害を併せもつ生徒から素早く今までの自分を感じ取り、論理化しはじめた。
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