教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(20)
山城高校に聴覚障害児を制度的に受け入れる問題をめぐる賛否両論。賛否両論と言っても賛成は非常に少なくむしろ反対意見ばかりだった。
現在の京都府立高校では、京都府教育委員会から提起されて論議で賛否を論じるなどはほとんどない。
京都府教育委員会の決めたことだから……と校長。質問も意見も出す教職員会議が開かれることもなく、既成事実が進行してしまう。
もの言える、考える、改善する機会が保障されたことだったか
ある高校の保健室では、病弱、神経障害や絶望になったりする生徒が一日100人をはるかに超して、養護教諭はその対応に追われて午後になると疲労困憊になっている。
保健室に入りきれない生徒が、保健室前で待っていると校長など管理職が外来者が来たり、自分たちが通れないので、なんとかしろ、と養護教諭に詰め寄っている。
なんとかするのは、養護教諭の責任ではないのにすぐ誰かの責任にしてしまって、管理職の責任や学校全体で事態をどうするのか、と言うことすら話合う場が作られないでいる。
そのような実態を知れば知るほど、教職員の本音を徹底的に出し合い、意見を京都府教育委員会に言う場がもたれた1970年年代の京都府立高校と京都府教育委員会の関係は、もの言える、考える、改善する機会が保障されたこととして重要だったかもしてない。
「歩む姿で考える」と言う名言と約束
ともかく、賛否両論の意見は、あとあと良きにつれ、悪しきにつれ、尾を引いたものとなって行く。
京都府教育委員会指導部長は、専門教師の配置、施設設備等などは「歩む姿で考える」と言う名言と約束をして、1971年3月の高校入試がはじまる。
結果的に山城高校に聴覚障害生徒全日制普通科2名・定時制普通科6名が合格。
これにともない、全日制と定時制にそれぞれ2名のろう学校経験者とろう学校から異動した聴覚障害k教育担当教諭が配置され、全日制聴覚障害委員会・定時制聴覚障害委員会が発足し、この委員会で、あらゆる問題が話されて行くことになる。
ようは、難聴学級をつくらず、聴覚障害生徒は日常的に普通学級で学ぶ。
だだし「聴覚保障(生徒たちは聞こえの保障と言っていた)」のために、オーダーメードの聴覚機器が特注され、使用状況を見て毎年改良する。
聴覚室(当初は、教室半分の部屋、後に一教室半の聴覚指導室)をつくる。
聴覚障害教育担当教諭は 聴覚障害生徒を含めた授業の典型を示す
聴覚障害教育担当教諭は、聴覚障害生徒だけではなく、持ち時間は配慮するが聴覚障害生徒のいる授業も含めて教科教育をする。
そして、聴覚障害生徒を含めた教室での授業の典型を他の教師に具体的に示すというものであった。
そのため聴覚障害教育担当教諭の責任と負担は非常に重たかった。
特に、定時制には、6名の聴覚障害生。
聴覚障害以外にもさまざまな障害がある生徒。
全日制不合格で自暴自棄になっている生徒。もう一度学習し直そうとしている生徒。
さまざまな生徒が入学してきた。
そして暴力問題も含めて生徒指導上の問題が属していた。
こんな状況でやって行けるのか
1971年4月。
ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)の四年生再入学。
一年生に聴覚障害生徒の入学ということがはじまって行ったが、人見豊氏(瞳みのる)の話題は社会的に大きな広がりを示したが、聴覚障害生徒の入学はほとんど知られることはほとんどなかった。
こんな状況でやって行けるのか、という不安の中で、人見豊氏(瞳みのる)らが当時気づかなかったことが、聴覚障害教育に大きな影響を与えて行く。
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