Once upon a time 1969
最近、このブログを読んだ人から、このブログに掲載されていることは、過去のことであり今とはまったくちがうと言われた。
だが、はたしてそうだろうか。
歴史は繰り返すと言われるが、過去の悲劇や哀しみは無くなって欲しいと思うが、現在のほうが「隠された悲劇や哀しみ」が多いように思える。
ことばの言い回しは何かしらていねいで、新しいことのように思えるが幾重にも張り巡らされた着ぐるみを取り除いてみると、そこにはヒューマニズムの欠片もないことが多い。
時間の切り売りではなかった手話通訳の公的保障
1969年の頃の京都の手話通訳は、あまりにも少なく、また手話通訳者の犠牲も多くあった。
だから手話通訳保障を求めて公的保障を求めてきた。
その公的保障は時間の切り売りではなかった。
今、よいにつけ、悪しきにつけ手話通訳は時間で切り売りされていることがほとんどになっているように思える。
だから、過去がいいと言っているのではない。
まじめに手話通訳をする人が病気になってもなんの補償もない。
一方、お金がないからと言って手話通訳を替わってもらうというアルバイト感覚の人もいる。
どちらもよくないと言っているのではない。
手話通訳とは何かという基本に立ち返らなければしばしば、気づかないうちにろうあ者の人々も手話通訳者の人々も窮地に追い込まれていることになっているのではないか、と思うことがしばしばあるからである。
方法だけですまない問題が
手話通訳の方法、このことばをどう手話にするのか、という講習会や資格講習には多くの人がどっと現れるが、手話通訳の本質や手話の論理についての学習会に参加する人が少ない。
これは、手話通訳関係の書籍にもハッキリ表れている。
ハウツーの本を買う人は多いが、手話通訳とはなにかを論じた本はほとんど売れないか、発行もされなくなっている。
福祉や教育の分野でも共通する課題
このことは、福祉や教育の分野でも共通して言えるのではないだろうか。
書店に行き、教育の本棚を見たら奥付(書物の終りにつける、著者・著作権者・発行者・印刷者の氏名、発行年月日、定価などを記載した部分。)を見るのが癖になってしまっているが、初版からはじまって増刷されている本は、いわゆる堅い本ではない。
そこには、1960年代の本などはほとんど見いだせない。
書かれていても、なんの根拠も調べもしない憶測がある。
手話通訳関係もそうである。
過去を繰り返す可能性が充分ある
過去を見ないで、今だけを見る風潮は過去を繰り返す可能性が充分あると思える。
A鉄工所問題でも、夜を徹してろうあ者と手話通訳者が話し合った。
あれやこれや、ああでもない、こうでもない、と。
今、そのような話が出来るだろうかと考える。
誰かが、こうではないかと言うと……。
こうしようというと……。
が、多いようの思える。
最初の一歩。
たえず反芻するが、A鉄工所問題も論議をつくしたから大きな教訓が得られたが、京都ではそのことすら知らない、いや知ろうとしない手話通訳者がほとんどである。
それらの記録は残されているにもかかわらず。
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