Once upon a time 1969
近年、昔のろうあ者は、字幕付のある洋画は見たが邦画は見なかったとまことしやかに語られている。
朝から晩まで食い入るように映画を見続けたろうあ者は多かった
たしかに、1969年頃、私が出会った多くのろうあ者は洋画を楽しみにしていた。また映画をよく見ていて驚くばかりだった。
映画は、現在のように入れ替え制ではなく、朝から晩まで映画館のイスに座って映画に魅入るろうあ者は少なくなかった。
聞けば、映画のストーリや俳優や詳細な内容は足下に及ばないほど詳しかった。
洋画は、字幕があるが難解な文字も多く、セリフは現在よりはるかに多く字幕をよんでいると画面が見られず、画面を見ていると字幕が見られないなどの問題があった。
また、字幕の文字も読めないろうあ者もいたが、映画の内容はとても詳しかった。
あらゆる文化を聞こえる人と共有しようとする努力
不思議に思って聞いてみるとろうあ者同士の交流や聞こえる人から聞いた話を元にもう一度映画を見て、映画を楽しんでいたことが分かってきた。
では、字幕のない邦画はまったく観ていなかったのか、と調べてみるとそうではなかった。
邦画もろうあ者同士の交流や聞こえる人から聞いた話を元に何度も見ていたからである。
ろうあ者は、映画や音楽、落語、漫才などなどの文化からまったく隔絶されていた、という考えは正しくない。
漫才は、ことばのやりとりで笑いを誘う。
その笑いについて行っていたろうあ者もいた。
聞こえないから~は、ダメだった、と決めつける人々は、ろうあ者が聞こえる人々とともに文化を共有する取り組みをしていたことを否定していると思う。
京都北部 大江山で生まれ育った
藤田さんと映画「名もなく貧しく美しく」
藤田さん。
あえて実名で書かせていただく。彼女から自分たちのことは後々伝えてほしいとの強い要望があったので。
彼女は京都府下の「鬼」(酒呑童子のおとぎ話で有名な鬼退治から来る表現)と当時手話で表す大江町(現在の福知山市)出身であった。
すでに書いた「2011年11月 大富豪の家で育つたろうあ者Iさんが一目で、見初めた相手は」のIさんは、大江町から険しい峠を越した隣町で育った。
1958年「暮らしの手帖45」に藤田さんは、「しかし、私たちも明るく生きてゆく」の題で次のような事を書いている。
映画はすきでときどき見に行きます。
見るのは大てい洋画です。
そういうと、なんだか気どっているみたいですが、私たちは、ついそうなってしまうのです。
というのは、洋画だと画面の端に字幕が出ますが、邦画の方は、字幕が出なくて、スジがわかりにくいからです。
それでも、評判のいい邦画は、見たくて出かけます。
そんなときは同じ映画をみた公舎の女の先生に、おもなセリフを説明してもらうのです。
これらの藤田さんの文章などが映画監督の眼にとまり、「名もなく貧しく美しく」の映画を創ることになって行く。
0 件のコメント:
コメントを投稿