Once upon a time 1969
藤田さんの文章は、非常に実直で、淡淡と綴られているように見えるがが、それもまた彼女の人柄を表している。
この文章を現在の私たちがもう一度読み直す必要にあるだろうと思う。
そこには、聞けないからと「社会から隔絶された社会」で生きたろうあ者の生活より、人間味をさらに熱くする人々の姿が見いだせるからである。
お金も、ほしいにちがいありませんが、なんといっても、いちばん苦労するのは、ことばです。
ふつう私たちは、相手の話を、その口のかたちで判断するのですが、それも気をつけて話してくださるときだけで、知らない方だと、まるきりわからないのです。
それに、わかるといっても口の形だけですから、たとえばベントウとベンジョをまちがえることだって、ないとはいません。
夫は、ことに中途からの失聴者ですから、私が早口に口を動かすと、よけい読みとれないようです。
そこで、私の方は、手まねや、指文字や、それでも間に合わないときは、単語だけ紙に書いたりします。
そこへゆくと、こどもたちは、小さいときから、母親の口の動かし方や、声の出し方になれていますから、どんなに早口に話しかけても聞わけられるようです。
しかし、こどもたちには、ゆっくり話してもらわないと、私の方はわからないのですが、学校の話、おとぎぱなし、科学の話など、なかなかのおしゃべりですからこれから、こどもたちの豊富な話題についてゆけるかどうかが、いまから心配なのです。
知らない方とは、筆談一本やりです。
だからワラ半紙と2Bの鉛筆は、もう片時も離せない必需品です。
買物に苦労するだろうと、ときどき言われますが、ふだん毎日の買物だと、そんなでもありません。
そういう買物は行きつけの店ですから向うでも気をつけてくれて、ゆっくり大きく口をあけて話してくれたり、ねだんや分量などははっきり指でやってくれますから、そんなに不自由はありません。
困るのは、そうたびたび入ったことのない店です。
ことに、値札がついていないと、いくら聞いてもラチがあかないで帰ってくることも、ちょいちょいあります。
しかし、どうしても欲しいときは、私たちのようなものがよくやる手ですが、大体の見当でたとえば5百円札を出してみます。
それで向うが首を横に振ったら千円出します。
それでうなずいたら、この品は5百円と千円の間だなとわかるわけです。
私が町を歩くとき、ふつうの奥さんにくらべてずっと早いそうです。
自分では気がつきませんが、知らないひとにジロジロみられるのは、いくつになっても、身を切られるようにつらいのです。たぶんそんなことで早く歩くクセがついたのかもしれません。
一コマの写真に盛りだくさんの微細なこころの動き
藤田さんの写真は、プロカメラマンによって三脚で固定されたカメラで撮ったが、彼女自身の身体が動き、写真そのものがブレがあるように見える。
だが、そうではない。
手話を全身で表そう、とする動きとしてみてほしい。
当時、写真を掲載することに手話を学ぶ人から多くの批判があった。
動画にしてほしい、という意見である。
しかし、動画では、一瞬の表現の中に多くの思いが込められていることが解らないのだ、と説明しても解ってもらえなかった。
掲載された映像は、7200以上の写真から選んだものであるが、何度見ても、見る度に藤田さんの言いたかったことが、一コマの写真に盛りだくさんあることに気がつく。
手話は、微細なこころの動きを一瞬一瞬に籠めて、それを繋げて気持ちを伝えるものである。
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