Once upon a time 1969
藤田さんご夫婦の話は、京都のろうあ者から何度も話も聞き、奥さんの書いた手記が「名もなく貧しく美しく」の映画化になったことも聞いていた。
そのため、何とかご協力を、と思い続けていたがご主人の他界。島根県と京都という距離のためなかなか出会うことはなかった。
ある時、この人がアンタの会いたがっていた藤田さんだ、と紹介を受け1982年から1983年にかけ快く引き受けていただいて話していただいたことを写真記録として残すことが出来た。(手話通訳問題研究誌20号1983年7月)
この時、教えていただいたことはたくさんあるが、まずなによりも藤田さんが書かれた文章と「暮らしの手帖」の写真と手話での話を掲載させていただく。
やはり、はじめに書いておいた方が、よさそうにおもいます。
私たち夫婦は、耳が聞えないのです。
このへんの言葉でいえば「うぶし」、つまり啞なのです。
山陰の松江から西へ、汽車で三時間あまりのところに、浜田という町があります。
人口は四万すこし、島根県では、松江のつぎに大きな町ですが、むかしからの港町で、そのためか、山陰にしては明るく活気があるようにおもいます。
私たちが住んでいるのは、この浜田です。
もっとも、私たちは、ふたりとも、この土地の生れではありません。
夫は兵庫県、といっても、日本海に面して、浜坂などに近い諸寄(もろよせ)の生れです。
私は京都府で福知山かち北丹鉄道というのに乗りかえて50分ばかり、大江町というのが私の故郷で、そこの農家の長女に生れました。
私たちが、この浜田に住むようになってからまだ四年とすこしです。
そのまえの一年は松江にいました。
夫がそこのろう学校の図工科の先生になったからです。
浜田へ来たのはこちらに新しくろう学校ができて、転任になったためでした。
松江で先生になるまえは、私たちは諸寄の夫の兄の家で暮しました。
結婚したのも、そこです。
夫が29オ、私が23オ、終戦のあくる年の暮でした。
兄の家も農家で、それを手伝っていましたが、戦後の農地解放で、多少の財産をわけてもらう話もだめになり、くるしい暮しでした長女と二女が、そのあいだに生れました。
松江の先生になったのは、そういう事情で、貧しくても安定した暮しがしたかったからです。
こどもは、ふたりとも、ふつうです。
上の子はいま小学校5年生、下の子が3年です。
親の欲目か、ふたりとも無事に育ってくれているようですが、私たちのようなものには、子を育てるのに、ふつうとはちがう苦労もないではありません。
赤ん坊のころは、夜中に泣いていても聞えないので、つろうございました。
すこし大きくなると、こんどは、こどもの話すことがわからないので、これには親も子も苦労しました。
しかし、学校へ通うようになってからは、筆談もできるし、空に字を書いたりして、不自由はなくなり、それに下の子のときは長女が通訳してくれたので、よほど助かりました。
私たち夫婦には、いらないものが一つあります。
ラジオです。
しかし、こどもにはいるから、とおもっていたところへ、下の子の入学祝に、妹がお古のラジオを送ってくれました。
はじめは私がスイッチを入れてやらないと聞こうとしませんでしたが、このごろは、コドモの時間になると自分たちでスイッチを入れて、おそくまで聞いています。
気になるのは、こんなふうにラジオの傍へ耳を持って行って聞くクセで、やはり子供なりに私たちにわるいという気がさせるのでしようか。
ラジオを聞いてわらったりしていると、ふっとねたましいとおもうこともありますが、こんな姿をみると、いじらしくてなりませんのです。
こころの内を思いっきり自由かったつに表現するのが手話
撮影は、当時最新のモータドライブカメラで百二十分の一秒の速さでシャッターを切った。
すなわち、一コマは、百二十分の一秒の瞬間である。
ところが、写真撮影はかなり離れた場所からとったが、しばしば画面に納まりきれなかった。
前回の「遠い大江町」と今回の「出しています」は、特にその特徴が見られる。
大江町が京都市内から、どんなにどんなに「遠い」か、書いて出した(広がったこと)が、どんなにたとえようのない喜びであったか。
表情と手の広がりで際限なく表されている。
現在ビデで放映されている手話を手話だ、と思っている人は多い。
肩から下、お腹から上という長方形の枠内で手話表現されているが、自分の気持ちをいい現すのにそのような「枠内」は、もともとなかった。
手先で、こちょこちょと表す手話をするとろうあ者のみんなは心配したものである。
「病気と違う。」「休んだら」と。
喜び、がどこまでも広がる手話表現を知っていただきたい。
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