Once upon a time 1969
次の画集「眠りから醒めて」を読んで、後藤さんの「スケッチ論」には、視覚的映像が焼き付いている、と言ったのだが後藤さんから一笑に付された。
画は画。
と言いいつつもその「絞り込む視点」には、多くの共通点が、見られてならない。
画家であるろうあ者の三人に共通するシャッター
福岡県の英彦山に寝食を忘れて立てこもって山水画の独特の境地を切り拓いたTさん。
結核に襲われて明日をも知れないという中で生き残ったOさん。
Oさんは、桂林の絶景を見て、船上から見える風景を次から次へと書き続けた。
観光客が、Oさんが画家とは知らず、絵を見て欲しい、欲しい、と言われた。
絶景にい魅入るOさんは、煩わしいので描いた絵を次から次へとあげた。
川下に船が着いた時には、スケッチブックは空になっていたと笑う。
川が流れるごとく速い。
そのスタイルは、三人に共通していた。
後藤さんも、スケッチを描いている様子を次から次へとメールで送ってこられたが、わずか数分で仕上げていく。
このあまりにも速い筆遣いを考えると、シャッターを切った瞬間のカメラの映像と「同じような作用」が三人に共通してあったと、思えてならない。
さて、引き続き画集「眠りから醒めて」の文を掲載させていただく。
息づまる10分間の勝負 そして醍醐味
スケッチは、その言葉どおり現地で腰をおろして描くものだが、写生とは違う。
写生は一つの作品まで仕上げるが、スケッチは一定のところまで描いて終るのが一般的。
いうならば習作のようなものだろう。
私の描くスケッチは、この我流の考え方で成り立っていてある程度のところで筆を置いている。
このある程度というのは、これも私の判断だが、これ以上描く必要はないと考えるからである。
つまるところ私のひかれるところにポイントをおきそれ以外はポイントの表現具合や、そこなわない程度でアッサリと描く。
または、何も描かない。
それで良いと考える。
いや、それで完成といってよい。
現地で描くのであるから、勿論色付けもそこで行う。この色付けがスケッチの一番の楽しさで、かつ一番神経を使う。
出来の良し悪しがここで決まる。
息づまる10分間の勝負でもある。
そして一種の醍醐味でもある。
スケッチはスケッチ 本命は本命と答えても
わかってもらえないもどかしさ
スケツチ画と本命作品とが一致していない、似ても似つかないこれも、よく言われる。
スケッチは色もやわらかく、繊細だが大作となると別人が描いたような荒々しいタッチ。 「なぜなんです?」と。
こう聞われて困惑する。
スケッチはスケッチ、本命は本命一一一と答えても、わかってもらえない。
もどかしいことこの上もない。
これを解くヒントは、前述の"習作"にある。
つまり、私の現地で見る、ひかれるモチーフの第一イメージがこのスケッチ画。
これをアトリエに持ち帰ってその画を元にして次の段階のイメージ(つまり第ニ:イメージ)をうかばせる。
その時点で必要不可欠なものは第一イメージで描き込んでおかねばならない。
そこにスケッチ画の繊細さが要求される。
という作業の過程が私の制作パターンというわけだ。
これでおわかりかな?……。
もっともこれは現在の一過程にすぎない。
今後の私の制作展開の中で、また変っていくかも知れない。
いや、変っていくだろう。
障害を作品評価に持ち込むのは、どうか
最近、障害者アートが社会的に注目されて来た。
それ自体は悪いことではないが、気になる点がある。
障害者と一口に言っても実に様々である。
これらの人たちが芸術をたしなみ、制作することはむしろ喜ばしいことだろう。
私が気になると言ったのは、それらの障害を作品評価に持ち込むのは、どうか一と恩うのだ。
障害を有するが故に独特の制作過程とか、独特な表現形態を必要としたり出す人もいるかも知れないが、美術の世界はクールなもので、作品そのものにより評価される。
またそれを前提とするのが美術だと思うのだ。
賛成しかねる ありえない デフ・アートなるもの
耳の聴こえない者(あえて言えば手話をコミュニケーション手段とする者)をろう者と言うが、これを英語にして"デフ・アート"なるものが流行って来ている。
これについても私は賛成しかねる。
そんなものは、ありえないと思うのだ。
知的障害者がその障害故に無垢なままで制作した作品を"魂の芸術"など賞賛する人がいるが、私にはとてもその気にはなれない。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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