Once upon a time 1969
ろうあ者が、どれだけ「相手に伝えようとする知恵と工夫」の努力をしていたか知ってほしい、と書いた。
このことについて、故後藤勝美さんと固い約束があった。
後藤さんは、画で示す。アンタは文で書く。
という約束だった。
文で書く場合は、後藤さんの画(絵と書くといつも後藤さんに叱られた。)掲載してもいいとも言われた。
今日、ようやっとそれがはたせているのだが、後藤勝美さんは、すでに他界している。
何度もおいで、と誘われた後藤さんの仕事場を探してやっと訪れた時は、彼が、医者から死を宣告されてすぐの日だった。
生き抜くぞ、といった彼のギョロッとした眼が今も忘れられない。
病気に伏せって、絶望感に襲われていた時、後藤勝美さんから贈られてきたのが「眠りから醒めて」という画集だった。
それまで、長い後藤さんとろうあ者問題を通じてのつきあいがあったが、彼が画家をめざしていたとはまったく知らなかった。
画集「眠りから醒めて」の後藤さんの文章の一部を紹介させていただく。
そこからはじまった運命
私は、肢阜市合渡生まれで、兄妹が多い五男として育った。
9歳までは、耳が聴こえていたが末っ子の世いか大変内気な子であった。
それが10歳になって間もなく急性脳膜炎を患い両耳とも全く聴こえなくなってから内向性が更に強まっていった。
運命は、そこからはじまったと言える。
自然ななりゆき もの言わぬ相手を求めるのは
絵に興味を持ちはじめたのは、その前後だったと記憶している。
内気な上に更に聴こえなくなったのだから、もの言わぬ相手を求めたのは自然ななりゆきかも知れない。
描くことは対話がいらない、ひとりで楽しめる、もっと言えば慰めてくれる。
そんなところにも大きな原因があったようである。
そして、母親というものは鋭いもので、私に絵を描く途に導いてくれたのであった。
母は、第一の先生であった
私の第一の"先生"は、他ならぬ母・はなであった。
こんなこともあった。
私が成長し、小学5年の頃だと思うが近所に住む画家K氏のところへ母が相談にいった。
進路相談である。
K氏は即座にこう答えた。
「我々でも筆一本買うのに大変な思いをしている。ましてや耳の聴こえないことでは、とても、とても」と。
あきらめた方がいい一と、言われたようであった。
無理もない話である。
だが、母は絵を止めよとは言わなかった。
それどころか私に第二の"先生"をさがし、その先生の元へ習い通うことをすすめてくれたのであった。
当時の世間からみる身障者、わけてもろあ者に対する目は非常に冷たいものであったから、母の私に対する思いは並々ならぬものであっただろうと想像する。
意識しはじめた 耳が聴こえないというハンディのつらさと不利
私の第二の"先生"である打下武臣氏は、県立高校の美術科教師をしておられ、丁度加納栄町へ移っていた私には歩いて行ける距離に先生の自宅があった。
そこのアトリエへ今で言う個人授業で週一回通い絵を教わった。
数年間通ったと思う。
しかし、耳が聴こえないことによるものだろうが、あまり"教わった"という感じはしなかった。
どちらかと言えぱ、まねて描いたことの方が強い。
今でも言えることだが、口で言うことと筆記でとは大きな隔たりがある。
耳が聴こえないというハンディのつらさと不利をこの時から徐々に意識はじめていったものであった。
耳が聴こえていたらもっと生の声、それも詳しく聞けたにちがいない。
筆談というものはきわめて事務的で淡々としたものとなる。
これは、現在でも変らない。
母と兄が、絵の腕を活かす職業と学ぶ所をさがしてくれた
私は加納西小学校から県立ろう学校へ移り、そこで9年間ろう教育を受けたが、同校高箸部2年の時、ある事情で中退した。
もっと学びたいということもあったし、早く社会に出たいという気もあって学校を後にした。
だが、行くところはすぐにみつからずしばらくの間は家でブラブラしていた。
そんな私を見かねた母と兄(三男)が、絵の腕を活かす職業と学ぶ所をさがしてくれ、それぞれ通いはじめた。
職とは、映画の絵看板を描く仕事、そして学ぶ所とは、名古屋の栄交差点の近くにあった桜画商の2階「名古屋洋画研究所」がそれであった。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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