Once upon a time 1969
画集「眠りから醒めて」を見、読んでいると今まで知らなかった後藤勝美さんのことがよく解った。
引き続き、画集から後藤勝美さんの文章を掲載させていただく。
様々な人と国の人間の喜怒哀楽やその深みを
総合芸術といわれる映像を通して
映画の絵看板(当時は"劇画看板"と言っていた)の仕事は、笠松で約2年、のち岐阜で10数年勤めた。
なるほど、この仕事は絵を描く仕事であったが、美術とは全く異なる。
しかし描くという点では共通しているから楽しいものであった。
邦画、洋画の華々しいスターの顔を描き、背景も入れ、タイトル、役者の名やキャッチフレーズなどを書き込むのである。
おかげで私はこの時期に多くのことを学び、美術面とはちがったもう一つの技を身につけることが出来たと言える。
それは総合芸術といわれる映像を通して様々な人と国の人間の喜怒哀楽やその深み、劇画に関して言えば早描きのコツ、色と文字、そこに必ず出る空間、余白等々がそれであった。
人を鼓舞させるキャッチフレーズや、引きつける文字のカタチと色、そして人物を含めた全体表現方法など、これらは現在のイラスト、レイアウト、レタリング等の特技として生かされている。
苦境に負けたくなかった
名古屋の洋画研究所通いは、これまでのあやふやな個人授業で満たされないものを基礎的にみっちりと学ぶためであった。
つまり、デッサンである。
石膏と裸婦の造形要素をここで私は二人の先生から教わった。
吉川先生と大竹先生である。
元を言えば、中退時点に京都か筑波のいずれかのろう学校へ転校する話があったのだが、家庭事情等で諦めざるを得なかった。
京都は図案科が、筑波には美術科があったのである。
しかし、私はこの苦境に負けたくなかった。
れっきとした名門美術大学を出たからと言って、画家になれるとは限らんぞ!という負けん気が潜んでいた。
ここの研究所で、およそ1年半ぐらい通って一応マスターした。
辛苦は差別や無権利な状況に置かれて
尚も耐えねばならないのか
あれほど創作意欲に燃え、制作に打ち込んでいた私の青年時代に、なぜ?、どうして?、筆を休めるに至ったのか。
何がそうさせたのか。
それは、一口に言えば社会変革に燃えたからであった。
多くの障害者、わけてもろう者の当時の実態はひどいものであった。
ここでは書き尽くせない。
この辛苦は差別や無権利な状況に置かれて、尚も耐えねばならないというものであった。
この理不尽きわまる世を避けて
放っておいてよいものだろうか
身体こそ大人であるが、大人として認められず、文句一つでも言えばもう相手にされなくなるというものであった。
この理不尽きわまる世を避けて、自らもろう者である私に何が出来ようか。
放っておいてよいものだろうか、自分の問題でもある。
自分がやらずして、誰がやる/一と、己の使命のように思えた。
そう感じて、以来、ひたすらにろう者の福祉運動に没頭していったのであった。
私の半世紀は、以上に述べたようにろう者の福祉に身を献げたようなものであったが、画業への夢は断ち切れたわけでなかった。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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