Once upon a time 1969
舞鶴盲聾分校の聾分校の中学部廃止・統合に地元府会議委員が「地元議員の血の叫び」とまで言って京都府議会本会会議で反対した「統廃合問題」も京都府・京都府教育委員会の強行で押し切られた。
そして、今度は特別支援教育(京都府教育委員会は、支援教育という名称を使っている。)の名の下に再び、舞鶴盲聾分校の統廃合の動きが強まってきていいる。
京都府立聾学校舞鶴分校の存続および発展を
そのため、社団法人京都府聴覚障害者協会と両丹聴覚障害者協会は連名で2010(平成22)年12月20日 京都府知事・京都府教育委員会委員長に次の申し入れを行った。
そのこともあってか、2011年4月から京都府立の養護学校はすべて支援学校という名称に変更(変更する義務は課せられていない。他府県では、名称変更がされていないところもある。)されたが、聾学校・盲学校は名称変更されなかった。
歴史的経過から考えてもろう学校の統合廃止は、ろうあ者の生死をかけた運動になると言っても過言ではないことは充分予測出来る。
2010(平成22)年12月20日
京都府立聾学校舞鶴分校の存続及び発展について(要望)
社団法人京都府聴覚障害者協会
両丹聴覚障害者協会
日頃は、私ども聴覚障害者の福祉の増進にご配慮をいただき厚く御礼申し上げます。
つきましては、京都府立聾学校舞鶴分校の現況を鑑み、下記の指摘及び方針に沿って要望をお受け止め頂きますようよろしくお願い申し上げます。
記
1.京都府立聾学校舞鶴分校を存続させること
今、全国的に聾学校の統廃合の動きが起こっています。
舞鶴分校は、京都北部の聴覚障害児・者の精神的及び文化的な唯一つのよりどころです。
戦後まもない頃、京都北部では、今のように手話通訳者もおらず、ファックスもなく、ろうあ者の運転免許取得も認められない困難な時期でした。
その当時に、ろうあ者自らが立ち上がり、京都府立聾学校舞鶴分校の設立を求める陳情の取り組みを展開させてきました。
その背景として、京都北部の聴覚障害児がお金の面などで京都市内の京都府立聾学校に入学できない問題が挙げられます。
未就学である聴覚障害者が多数いて辛く哀しい思いをされてきました。
また、ごく少数の聴覚障害者が京都市内の京都府立聾学校に入学していましたが、戦時中の寄宿舎の閉鎖、聾学校の閉鎖で充分な教育を受けられませんでした。
とても辛く哀しく、悲惨な思い出と生活がありました。
聴覚障害者の血のにじむ運動と府民のご理解を得て、昭和27年、京都府立聾学校舞鶴分校が開校しました。
その当時の言うに言えない喜びは、私たち社団法人京都府聴覚障害者協会・両丹聴覚障害者協会に伝承されています。
また、多くの卒業生は、様々な地域で生活されており、当協会役員を担う等、地域の聴覚障害福祉の啓発を担っております。
しかし、なによりも大切なことは、聴覚障害者としての自我の確立、障害を認識し、社会の中で生きていく勇気を育てることではないかと考えます。
聴覚障害者の存在と権利保障、聴覚障害に対する高い専門性を有する教師の配置と育成を踏まえるとして、専門校としての京都府立聾学校舞鶴分校の存続は不可欠であると言えます。まさに
私たちの権利に関わる重大な問題です。
ついては、全国的な動きである聾学校統廃合は、私たちの否定につながる重大な問題と捉え、どんなことがあっても京都府立聾学校舞鶴分校を統廃合しないように取り組んでください。
以上
小さい学校だからつぶしてもいいと言うことは
大きな学校もつぶしてもいいと言うことになる
この意見をとりまとめたUS君にわざと次のような質問をした。
「君は、小学校、中学校、高校、大学と普通学校で学んだのに、なぜ、ろう学校が聴覚障害児・者の精神的及び文化的な唯一つのよりどころ、と考えるの。」
「それは、ろう学校があったから普通校で学べたと言うこともあるけれど、ろう学校で学んでも、普通校で学んでもみんな同じ仲間だから。」
「全面、大賛成でろう学校卒業生も普通校卒業生も強い要望運動をしようということになった。」
「小さい学校だからつぶしてもいいと言うことは、大きな学校もつぶしてもいいと言うことになる。非常に危険な動きだという意見がたくさん出た。」
「聞こえる人には、多くの学校があるが、ろう学校はひとつ。ひとつの学校がつぶされるということは、すべてつぶされるということになる。」
「精神的及び文化的な唯一つのよりどころ、って言うのはろう学校は単に、勉強するだけの場ということではない、と言いたかった。みんなもそう言っていた。」
という返事だった。
このことばに、深い意味合いがある、と思う。
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